福沢諭吉と現代(2)
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時代は下るが、仏教が最も盛んだった鎌倉時代。禅の道元は「石女は夜生む」と言った(「正法眼蔵」山水経)。すべての女性が救い道を与えられたのだ。浄土真宗の親鸞は「善人が極楽に行けるなら、悪人はなおさらのこと」と言いきった。罪障感に苦しむ身も解放の道を得た。こうした思想は通常の論理を超えた精神の境地をあらわしている。非合理なのではなく、超合理なのだ。このような思想が日本人の心に宿る。仏教の渡来なくして考えられないのである。
聖徳太子に話を戻すと、彼には仏教の根本が直感的に、驚くほどの速さでわかってしまった。「仏教は国を強くするための便利な道具だ」などと、彼は思わなかった。彼が経典を自ら解釈した注釈書を見れば(「三経義疏」)、それはわかる。
彼にはたった1つ思想があった。「世間虚仮、唯仏是真」(世間はむなしい、仏のみが真実だ)。この深い思想を受け入れ、それに最高の価値を置かなくては、自分たちは永久に「未開」のままだろう、それは耐えられないことだ、そう彼は思ったのである。
頭のいい彼は、人々が仏教を知ることで大きく変わるとは期待しなかったかもしれない。はじめは形式だけでもいい、少しずつ浸透していくだろう、それぐらいにしか思わなかったかもしれない。しかし、ともかくも仏教を国の中心に据え、人々を教化していくことを考えた。そういう人を革命家と呼んで、どこが悪いだろう。
一方の福沢の中心理念も「文明」であった。彼にとって、江戸時代までの日本は「文明」ではなかった。だからこそ、西洋の科学を導入することで日本を「文明」世界の一員にしようとしたのである。仏教に代わって、科学を標榜したのだ。
では、科学とは彼にとって何だったのか。
実証である。実験してたしかめて、はじめてそれを真理だといえる。この精神が彼にとっての科学だったのだ。彼にとって、科学の発達のないところは「文明」のないところだった。西洋は科学が発達しているからこそ「文明」といえるのであり、日本もその路線を選び、邁進すべきだと思ったのである。
福沢が実証を重んじたことは、彼の幼少期の思い出に見つかる。少年時代、彼は間違って藩の殿さまの名前の書いてある紙を踏んづけてしまった。それを見た彼の兄は怒り、弟の諭吉に説教を垂れるのだが、弟は納得しない。紙切れを踏んで、どうしてそれが「不敬」なのかと。
そこで彼は実験する。神社のお札を盗んできて、これを足で踏んづけてみる。はたして、祟りがあるか。なかった。今度はそれを便所で汚してみる。それでも何ともなかった。やはり、兄は間違っていた。自分が正しい(「福翁自伝」)。
こうして実証の重要性に目覚めた少年が、やがて蘭学すなわち西洋科学を知り、「我が意を得たり」の思いをするのである。
福沢は蘭学を学び、オランダ語ができるようになった。文書の翻訳や通訳として活躍し始める。しかし、開港したばかりの横浜に行って、オランダ語はたいして幅を利かしていないことを悟ると、これからは英語だと確信し、早速英語の学習にとりかかった。幸い、オランダ語と似ているので、習得は速かった。そういうわけで、幕府から英語通訳として雇われ、アメリカに、さらにはヨーロッパにも、使節団についていくことになる。
そこで見た欧米世界こそは、彼の眼を大いに開かせた。彼の地では科学が発達していただけではない、人間関係の在り方が、およそ日本とはちがっていた。最初は戸惑ったが、人間関係にも合理性が感じられた。身分秩序以上に、実力、すなわち知能が評価され、どの人間も最小限の尊敬がはらわれているように見えたのだ。
もちろん、欧米社会にはそれなりの弱点や欠点もあったろう。しかし、彼はそれに気づくよりは、日本が見習うべき点のほうに関心があった。彼にとって、欧米社会のよい面は、日本社会が自己改良のために取り入れるべきものだったのである。
そうはいっても、西欧諸国が世界各地を植民地化し、非西欧の民を隷属させている実情が見えないわけではなかった。そうなると、日本はどうすれば良いか。まずは西欧に隷属しないために、科学の栄える「文明」の実現をしなくてはならない。そうしないと、アヘン戦争に負けた中国のように、簡単に隷属の身に落ちぶれてしまう。そういうわけで、「文明」は彼にとって、凶暴な世界から身を守るためにも必至の選択だった。
つまり、福沢が科学を導入して日本を文明化する目的は二重だった。一方で、日本の知のレベルを文明のレベルに引き上げることが大目的だった。他方では、日本という国を外敵から守るための文明でもあったのである。
この目的の二重化を福沢自身どう表現したか。「背に腹は替えられぬ」である。高い文明の理想を目指すにしても、まずは国の独立がなくては話にならない。まずは科学導入による「富国強兵」を目指そう。そういうことになったのである。とはいえ、福沢の考えた「富国強兵」が、文明の理想の実現のための必要条件に過ぎなかったことは強調しておきたい。同時代の明治政府や多くの知識人にとって、「富国強兵」そのものが最大目的だったのに、福沢にとってそれは手段に過ぎなかったのだ。この福沢と同時代人たちとの認識の差をしっかりおさえておかねばならない。でないと、福沢を不当に矮小化してしまうことになる。
(つづく)
【大嶋 仁】<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。関連記事
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