2024年05月09日( 木 )

日本人よ、森を守ろう─「成長」に代わる新グランドデザイン考察(3)

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 明治維新以来、日本社会は欧米社会を近代化のモデルとして政策を行ってきた。大雑把にいえば、経済領域では資本主義経済の導入による工業化が図られ、政治分野では憲法の制定や普通選挙の導入、女性活躍推進など、欧米を追いかけるように社会を変革させてきた。福祉の分野でも、ヨーロッパ諸国をモデルに福祉国家の形成に取り組んできたし、当然近代化を目指した建築業界は都市化させることに注力した。明治以来の「欧米に追いつけ、追い越せ」も、昭和の列島改造も、自己ではない何者かになることを目指す「改造の論理」に貫かれたものだ。

 改造の論理の根底にあるものは、不都合なもの、不便なものは亡きものにしようとする自己否定だ。そこに国の未来はない。否定ではなく、改造でもなく、この列島の性質と国民の気質を受け入れ、価値を再評価する時期がきている。前号では「都市」について触れてきた。今号では、農山村部からこの国の骨格がどのように都市に向かっていったのか、その背景を探ってみたい。

(文献引用:日本列島回復論/井上岳一)

「外に出ろ」、片道切符の棄郷

 都市と田舎のバランスが重要だ。田舎出身者のなかには、田舎を毛嫌いしている人が少なくない。そういう人たちは、過疎の閉鎖性や後進性、封建的な部分に対して、ほとんど憎悪に近い感情を抱いている。それだけ彼らにとっては、遅れていて不自由で未来のない世界だったのだろう。それは、中央集権的な国家のシステムに過疎が組み込まれたことの呪縛なのだが、かつて若者たちはそんな場所に未来を見出すことができず、故郷を出て都会を目指した。それは離郷というより棄郷で、二度とそこには戻ることのない、片道切符での上京だった。

 里山の恵みを生かして十分に稼ぐことができたのは、昭和30年代までだった。エネルギー革命の結果、薪炭の需要が激減し、自由貿易が進んで木材や繭、生糸、石油・石炭の輸入が増えると、国内産に対する需要は低下し価格は下落した。主な炭鉱は1970年代にはほぼ閉山し、林業や養蚕も急速に衰退する。

 土建国家モデルの成立から、日本は稼ぎをセーフティネットとする社会に急速に変化していった。お金に頼らずに生きていくと腹を括れる人がどれだけいただろうか。親の世代は何とかなった。しかし、子どもの学費は必要だ。欧州のように高等教育無償化などの現物給付をしてこなかった日本では、子どもに高等教育を授けるにはどうしても現金が必要になる。そのために親たちは出稼ぎをしてでも子どもの学費を稼いだが、子ども達には同じ苦労をさせたくなかった。地元で安定的に稼げる仕事は役場や郵便局、消防署など公共系の仕事か、農協や信金など地域密着型の金融機関くらいだから、子どもの幸せを願う親たちは「こんなところにいてはだめだ」「外に出ろ」と子どもたちの背中を押したのだ。

写真4_都市と田舎の緊張関係(里山の風景イメージ)
都市と田舎の緊張関係(里山の風景イメージ)

日本人に馴染み深い、複業というライフスタイル

 文部省唱歌「ふるさと」の歌詞に象徴されるように、夢を実現し、志をはたすのは都会で、故郷はそのためならば捨てても仕方のない場所、それでもいつまでも自分の帰りを待っていてくれる温かな場所。「心をめぐる忘れられないところ」である故郷のイメージを含み、立身出世の物語に囲い込まれながら、多くの里山の民は自ら求め、あるいは軍隊や工場に徴用される集団就職というかたちで都市を目指した。先人たちの多くは、故郷を離れて都市近郊に暮らし、都心の企業に勤めて生計を立てる給与労働者となった。高度経済成長期以後は、名のある大学を出て、名のある企業や組織に勤め、それなりの地位と給与を手に入れることが立身出世のモデルとなり、そして今なお多くの子孫たちは都市に残り、暮らしを続けている。

 都市で長く1つの職業に就くような就業構造が一般化する一方で、里山では多様な生業が衰退し、複業で生計を立てることができなくなった。その結果、「サラリーマン」として1つの会社で勤め上げることが合理的な選択となり、日本中から複業のライフスタイルが消失していった。複業・兼業せずに暮らせる十分な稼ぎを与えてくれる仕事が良き仕事とされ、転職を繰り返したり、複業で生計を立てたりすることを、真っ当な生き方ではないとみなす風潮が広まっていったのだ。

 しかし、それは1960年代以降の、たかだかここ50~60年のこと。サラリーマンが「普遍的職業」であり得た、極めて特殊な時代に根付いた価値観・ライフスタイルだ。それ以外の長い間、この列島ではほとんどの人は起業も含む複業で生計を立ててきたはずだ。

 「百姓」という言葉は“百の姓”からきていて、多様な仕事をして生計を立てていることに語源があると言われている。元来、農家の仕事は田畑を耕すことだけではなかった。農作業の合間にわらじや織物をつくったり、炭を焼いて町に売りに行ったりと、多くの手仕事をしながらお金を稼いでいたのだ。およそ思いつく限りのあらゆる仕事をしながら、一家が暮らしていくために必要なだけのお金を稼ぐ複業のスタイルは、今に始まったことではなく、昔から日本人には馴染み深いものだったのだ。

集団就職で都会を目指す
児島 宇野津の棚田 © rikky_photography
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)

(つづく)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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