2024年05月08日( 水 )

なぜ不寛容社会になってしまったのか(4)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 今日日(きょうび)、子どもに“こんにちは、今日も暑いね”と、挨拶がてらこのように声をかけると、即座に不審者扱いされ、行政のLINEサービスで市民へ注意喚起の通達が出回っていく始末。これを現代では「不寛容社会」というらしい。

日本人はマナーが良いのか

日本人はマナーが良いのか、悪いのか Photo AC
日本人はマナーが良いのか、悪いのか Photo AC

    電車でおばさんの団体さんに遭遇することは多い。おばさんのうち、すごく元気な人がまず社内に飛び込み、座席を人数分確保する。そして後からやってくる人に「ほら、ここ!取ったわよ!」と誇らしげに叫ぶ。席を取ったおばさんは、他の乗客が席の近くにきても当然のように無視し、自分の仲間を待っている。仲間が遅れていて、他の人たちが戸惑った顔やちょっと怒った顔で空いている席を見ていても、そんな視線はまったく気にしていない。自分が獲った席は、自分の仲間たちのものだと確信していて、彼女にとって席の側に立っている学生や、親子連れだったりする人たちは、居ないも同然なのだ。存在しているのは自分の仲間たちだけ…。

 おばさんは、決してマナーが悪いのではない。それどころか仲間思いのとても親切な人で、困っている仲間がいればきっと親身になって相談に応じたりしているだろう。彼女は自分に関係のある世界と、関係のない世界をきっぱりと分けているだけなのだ。それも多分、無意識に。おばさんは自分に関係のある世界では、親切でおせっかいな人のはずで、自分とは関係のない世界に対しては、存在していないかのように関心がないだけなのだ。この、自分に関係のある世界のことを「世間」と呼び、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶ。おばさんは「世間」に関心はあっても、「社会」に関心はない。そして自分の「世間」に属している人のためには必死で走り、電車の席を確保するということ。

 そう考えれば、網棚に残されたバッグと、優先席で席を立たない日本人は、同じルールで動いていたのだと説明がつく。ほとんどの日本人にとって、網棚に残されたバッグは、自分とは関係のない世界=「社会」であり、目の前に立っている杖をついた老女もまた、関係のない世界=「社会」。関係のない世界だから、存在しないと思って無視したのだ。それが網棚のバッグなら「盗みのない奇跡のモラル」となり、優先席の場合なら「足の悪い人を立たせている最悪のマナー」になる。

ダブスタの日本

 日本人の多くは「世間」のなかで暮らしている。「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、“所与”とされている点である。社会は改革が可能であり、変革し得るものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。明治以降日本に入ってきた自由、博愛、ヒューマニズムや愛などという言葉は、私たちが実際に生きている「世間」では、リアリティをもっていない。

 「社会」という言葉が定着しなかった日本、「そんなことをしたら世間が許さない」「世間体が悪い」という言い方は残っても、「社会が許さない」とか「社会体が悪い」という言い方は生まれなかった。日本の「個人」は「世間」のなかに生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しない。そしてもちろん独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも日本にはない。日本人は「社会」と「世間」を使い分けながら、いわばダブルスタンダードの世界で生きてきた。

ダブルスタンダードの日本
ダブルスタンダードの日本
お茶摘み © 村上市
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

 「社会」とは文字と数式によるヨーロッパ式の思考法で、「近代化システム」と呼べるもの。私たちは「建前」と言ったりする。「世間」は言葉や動作、振る舞い、宴会、あるいは義理人情が中心となっている人間関係の世界。「歴史的・伝統的システム」と呼べるもので、「本音」と呼ぶ。日本人は「世間」、つまりは「歴史的・伝統的システム」のなかに生きているのだ。都市化とグローバル化で「世間」はここ数年、激しく壊れてきている。日本の「世間」を支えていた会社の2つの原則、「終身雇用」と「年功序列」がはっきりと不安定なものになったからだ。会社という「世間」が不安定になったことで、家庭という共同体も地続きで不安定になる。今日本人は、自分を支えてくれる「何か」を、「世間」が安定していた時代よりもはるかに強く求めている。

「不寛容」が幸福を奪う?

 近所の桟橋を小3の息子と散歩しているとき、80代にかかるくらいだろうか、自転車を押している男性と遭遇した。護岸に寄せるゴミのなかに珍しいものを発見したようで、何やらのぞき込んでいる。気になって息子と一緒に「何だなんだ」と近づいていき、3人がのぞき込むかたちになった。「…カブトガニじゃよ。昔はこの辺りも多かったんじゃけどなぁ…」と話しかけられた。「へえ、そうなんですね!こんなところにも居たんですか、珍しいですね!」──私は普通なら、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で流してもいいものを、何だかそのときは周囲に聞きこぼれるくらい大きめの声で返答していた。

 息子は小声で「生きてるの?」と続けた。おそらくこのカブトガニは、息絶えてここに流れ着いたのだろう。不寛容な時代、こんな他愛もない会話くらい、できるものなら残ってもいいじゃないか。…そんなことを気負いながら、私は他愛もない会話を横にいる息子に聞かせておきたかったのだ。

 「自分が幸せであることを自覚する」というのは、漠然としていて難しい。「寛大/寛容になる」ことから始めればいいだろうか。経済的に余裕がない人が無理に大金を寄付したり、寝る時間がない人がボランティアをしたりする必要はないだろう。電車で辛そうにしている人がいたら席を譲ってあげ、ベビーカーを押している人がいたら電車やエレベーターの乗り降りを手伝ってあげるといったことなら、誰でもできる。朝、道ですれ違う人に「おはよう」と声をかけたり、レジの人に「今日は良いお天気でよかったですね」と笑顔で話しかけて「ありがとう」というだけでも、相手に小さな幸せを与えてあげられるし、それによって自分も少し幸せになれる。

 社員の自発的な対応まで縛ってしまうような社則、社員の私生活や性格にまで踏み込んでくるような上司といったことも、日本人から幸福感を奪っている「寛容のなさ」かもしれない。他人の役に立つことができれば、自分を好きになることも容易になる。自分を好きになれたら、少し幸福に近づけるような気がする。他者に寛容になれると、自分にも寛容になれる。人が人を信じ、人を求める社会でなければ、人間全体に幸福の波及は拡がらない。そしてその幸福は、日々の実践を通してでしか獲得できないのだろう。

全域へ幸福が広がりますように pixabay

(了)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

(3)

月刊誌 I・Bまちづくりに記事を書きませんか?

福岡のまちに関すること、再開発に関すること、建設・不動産業界に関することなどをテーマにオリジナル記事を執筆いただける方を募集しております。

記事の内容は、インタビュー、エリア紹介、業界の課題、統計情報の分析などです。詳しくは掲載実績をご参照ください。

企画から取材、写真撮影、執筆までできる方を募集しております。また、こちらから内容をオーダーすることもございます。報酬は1記事1万円程度から。現在、業界に身を置いている方や趣味で再開発に興味がある方なども大歓迎です。

ご応募いただける場合は、こちらまで。その際、あらかじめ執筆した記事を添付いただけるとスムーズです。不明点ございましたらお気軽にお問い合わせください。(返信にお時間いただく可能性がございます)

関連記事