2024年04月30日( 火 )

経済小説「泥に咲く」(26)天晴れ

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

天晴れ

 コンフィデンシャルパークの田邊から、何度か電話がかかっていたが、勢事は意識して無視し、折り返しもしなかった。もちろんスパにも行っていない。話せば、いよいよ「今後の話」になるのは目に見えていたからだ。

「岡倉さん、田邊社長から俺のほうに何度か電話があってるんですけど、どうなっているんですか」

 高岡がそうメッセージを送ってきた。

「飯にでも誘われるだろうからついていって、俺は法人をナベちゃんに渡す気はないってことを、なんとなく伝えてみてくれ。あれだけの男だ。多分勘づいてはいるだろうから」

 指示通りに行動した高岡によると、田邊は「そうですか」と言ったきり、以後、その件には触れず、「改めて病院が再生できた慰労会を開こう」と申し出たという。そろそろケリをつける時だと勢事は覚悟を決めた。

 勢事は田邊に「慰労会ではなく、『お礼の会』を開くので、こちらから招きたい」と連絡を入れた。その前に少しだけ時間をとって、オフィスで話をさせて欲しいとも告げた。

 約束の当日、田邊が勢事と高岡のもとに迎えの車を寄越してくれた。勢事のオフィスの前に時間通りに到着したベントレーの運転席から、背の高い運転手が降りてきて、後部座席のドアを開く。慇懃な態度なのだが、運転手はじっと勢事を睨みつけている。勢事はその視線にこもった憎しみを感じ取っている。なるほど、この男は、俺たちが裏切ったことを知っているのだ、と読んだ。

 経営者の運転手は時として、一般の社員では知り得ない情報を耳に入れることがある。大方、田邊が車内からの電話で、誰かに勢事の描いた絵について話したのだろう。それは田邊がピエロになる物語である。だからこの忠犬は怒っているのだ。

 勢事はそんない運転手の心情にまったく気がつかないふりをして、にこやかに礼を言って座席に乗り込んだ。高岡もそれに続く。

「ああ、岡ちゃん、久しぶり」

 社長室に入ると、田邊はいつものように柔和な表情で2人を迎えた。

「高岡先生、先日はどうも。まあ、座ってください」

 一瞬の沈黙の後、勢事が先に口を開いた。

「ナベちゃん、これまでろくに報告もしないで、申し訳ない」
「いやいや、だいたいのことは、この前、高岡先生から聞いたから。それにしても、見事な再生だね。感心しているよ」

 高岡が深々と頭を下げた後、改めて徳山ホスピタルの現状を簡単に説明した。

「つきましては、ナベちゃん、お借りしていた2億5,000万円と、名目はコンサルティングフィーにしているけど、まあ、いわば利子ということで、6,000万円を上乗せしています。この資金がなかったら、病院の再生はあり得なかった。本当に感謝している」
「そうか。岡ちゃんは優等生だね」

 勢事はその言葉を聞いて、さすがに胸が痛んだ。田邊にとって、これは返してほしい金ではない。その金を含めた、病院全体、そして、勢事と高岡までもが、自分の裁量下に置けると考えていたはずである。いや、勢事がそう考えるように、周到に仕向けたのである。

 今、目の前に裏切った男がいる。それでも田邊は表情を変えず、むしろ自分を騙した詐欺師を褒め称えたのである。

 田邊の目はいつもと変わらず冷静さを保っていたが、勢事はその奥に一種の「あきらめ」を見た。田邊の側に立って考えると、もし、高岡が反発しているのならば、説得の可能性を考えたであろう。しかし、勢事のほうに田邊とともに事業を運営していく「心がない」ならば、何をやっても無理だ。一度、こうと決めた勢事の心を動かすことはできない。その事実を田邊は深く理解し、だから諦観したのである。

「じゃあ、岡ちゃん、もう、うちの会社から出している理事も必要ないね。次の理事会で、下ろすように決議すればいいから」
「すまない」

 さらりと言ったが、これは勢事の心からの謝罪だった。もし、自分だったら、子飼いの理事を1人残しておいて、一定の影響力を維持しつつ、切り取れるだけの金は引っ張り出そうと考えたはずだ。しかし、田邊は、今この瞬間に、仕返しをするつもりがないことまでも、暗に勢事と高岡に伝えたのである。

 天晴れだった。これぞ、男。勢事は田邊の器の大きさに敬服していた。この男にはとても敵わない。もし、自分が女だったら、こういう男に惚れ、そして惚れさせたいものだと、場にそぐわない想像までした。

 その後の会食では、病院の話は一切出なかった。田邊は自らの事業の未来を、楽しそうに語った。帰りのタクシーのなかで、勢事は高岡に言った。

「あんな度量の男はいない」
「でも、6,000万円を積んだんです。破格でしょう」
「違う。その前に2億5,000万円を借用書も無しに貸せる人間なんかいないということが重要なんだ。少なくとも俺には到底、無理だ。しかも、俺たちに騙されたとわかっても、恨み言の1つも言わない。最高の男だよ、ナベちゃんは」

 渡る世間は知恵を出し合う競争の世界である。出し抜いたほうが勝つわけで、勝ち敗けがあるから面白い。それは勢事と田邊との間も例外ではない。

 金持ちや成り上がりにお人好しはいない。田邊とて、決して「単なるいい人」ではないのだ。弱虫が勝者になることはない。経済的成功を収めている以上、姑息でズルいか、悪知恵の持ち主なのである。人情に負ける者は金持ちになれないからだ。

 すべては勝負。恨みっこ無し、なのである。ただし、それを本当に実践できる人間は少ない。田邊はそんな選ばれし強い人間なのだ。神さまは弱い人間を嫌う。これは勢事の持論だ。強くて明るい人、甘えず負けない人を好む。田邊は間違いなく、神から愛される人間である。

「その点でいえば、この勝負、俺の負けだったのかもしれない」

 勢事はそう思うのだった。

(つづく)

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