2024年04月29日( 月 )

経済小説「泥に咲く」(28)泥に咲く花

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

泥に咲く花

 大いなる力といえば、不思議な能力を持つ関村とは、つかず離れずの関係が長く続いていた。

 関村は大手広告代理店のエースとして、社内一の営業成績を叩き出し、スピンアウトして独立。福岡の成長企業をクライアントにして、大きな利益を出した時期もあった。

 しかし、我が世の春は長くは続かなかった。主要な取引先である流通企業の拡大の勢いが止まり、広告費が大幅に削減されたことが痛手となった。

「関村さん、俺が思うにね、神がかりを金に変えたのが悪かったんだと思うよ」

 中洲のクラブで杯を傾けながら、勢事は真剣な表情でそう言った。

「町中の占い師のことを考えてみてよ。儲かってそうな人なんて一人いないでしょ。関村さん、チャネラーとして経営者たちにアドバイスしてたじゃない。クライアントを思ってのことだったんだろうけど、どうもそういう能力で金を稼いでしまうと、入った金はそのまま出て行ってしまうように思う。理屈じゃなくて、経験則だけどね。俺はそういう気がしてならない」
「岡ちゃん、そうかもしれんね。ほら、古場道源なんて、その典型だもんね」

 勢事と関村は、見えない世界に興味のある経営者5人でグループを作っていた。会と言っても集まって酒を飲み、情報交換するのが主な活動で、その中で話題になり、付き合うようになったのが「古場道源」であった。

 自分を預言者と名乗り、神通力で人の過去と今と未来を観る。道源の見立ては、「なかなか」当たった。勢事が思うには、道源の能力はテレビに出演する霊能者に比べても決して低くはなかった。

 だのに道源が裕福になることはなかった。多くの経営者に先生と呼ばれ、アドバイスを施す存在なのだ。礼金だって安くはないはずなのだが、いつも金回りが悪い。そのことが「神をダシに使った商売はうまくいかない」という勢事の考えを補強した。

 ただ、道源と話すのはおもしろかった。勢事はこれといった信仰の対象を持っているわけではなかったが、根源的、本質的な話は好きだったし、いわゆるスピリチュアルに関する話題にも興味があった。

 それは勢事自身にも能力が備わっていたからかもしれない。能力といっても、霊が見えたり、神の託宣が降りたりといったことはなかった。ただ、たとえばその出会いが自分にとって必要なものかどうかは瞬時にわかったし、金が切り取れる相手なのかは直感で判断ができた。

 金の匂いとはよくいったものだ。もちろん、実際に人や事業プランが匂いを発するわけではないのだが、勢事は自分の嗅覚を使って、第六感的な能力を発揮している実感があった。見える、という人がいる。聞こえる、という人がいる。勢事の場合は「匂う」のだった。

 ただし、その能力が及ぶ範疇は、自分自身の損得に関わることに限られた。もちろん、経験則から、事業がうまくいくかどうかはある程度は判断できたし、それが「当たる」確率も高かったから、アドバイスを請われることは少なくなかった。聞かれれば、自分のできる範囲では応じていた。ただ、「匂いがする」のは、自らの人生に関わる切実な事案のときだけだった。

 一方、他者に影響を及ぼす能力もあった。勢事が念じれば、「その人の行き着く結果までの時間を早める」のだ。成功する人は成功までの時間が短くなったり、障壁がなくなったりする。この場合はいいのだが、失敗する人は一気に奈落の底に落ちてしまい、それが勢事には気の毒だった。

 ただ、40代も後半になると、ポジティブな結果を出す人だけに、勢事のアンテナが反応するようになった。だったら、その人のために念じ、祈ればいい。勢事は仲の良い友人たちをつれて、奈良、吉野の大峰山に詣でるようになった。神主が祝詞をあげている間、勢事は同行した経営者たちの背中に手を当てて、彼らの事業の成功を念じた。

 その間、勢事は他では感じられない集中の世界に没頭することができた。いわゆるゾーンの中で念じていると、「来た」と思える瞬間があり、あとで撮影された写真を見ると、決まってオーブが映り込んでいた。オーブとは小さな水滴のような光球である。勢事にはそれが意味するところまではわからない。ただ、大いなる何者かの存在を感じずにはいられなかった。

 大峰山を詣でる会は、いずれ訪れる先を京都、大原の九頭竜弁財天に変えながら、年々、参加者を増やしていき、10年目には50人以上にもなった。この旅の間、勢事は無心で他者の成功を祈った。もちろん、金は一切、受け取らなかった。自分の旅費はもちろん、供物の酒代や榊代までも自分で支払うほどの徹底ぶりだった。自説のとおりに神の怒りを買って、自分の事業をダメにするわけにはいかなかったからだ。

 10年目の旅は、実は勢事が心臓の大手術を翌月に控えた時期に行われた。現地入りしたその日の夜、集った料亭で、いつもは念じてもらう側の参加者たちが、全員で勢事の手術の成功を祈ってくれた。

 勢事は思う。ここに集った多くの人は、勢事のことを真に理解してはいないだろう。無償で他者の幸せを祈ってくれる慈悲深い経営者であり、霊能者だと評価している人も少なくないはずである。

 しかし、その実、勢事はいまだに自分自身を「泥の中で生まれた人間である」と思っている。泥の中で生まれ、育ち、泥の中に咲く「金」という華を、自分なりのやり方でつかんできただけの男だ、と。卑下しているわけではない。ただ、それ以上ではないし、それ以上になろうとも思っていない自分を認識していたのだ。

 しかし、こうして自分の命のために祈りを捧げてくれる人々の、その善良な顔を見ていると、ふと「嘘から出た実」という言葉が心に浮かんだ。蓮は泥の中に咲く。淤泥不染の徳。泥の中に咲いても、泥に染まらぬきれいな花を咲かせる。

 いや、もちろん、勢事は泥に染まっている。しかし、それを蓮華の花と錯覚してもらえるのならば、それはそれで価値のあることかもしれない。泥に咲く泥の花には、嘘をまことにして人の役に立つ、そんな存在の仕方もあるのかもしれない。

 そこまで考えて、ふと我に返る。泥の花が人の役に立とうなどと思うことが、恐れ多いのだ。獣道だけに通用する独特の法則の中で、俺は常に目を光らせながら、間抜けから切り取れる金があればロックオンして確実に切り取り、搾れる金があれば、とことんまで搾り取る。それが泥の中に生きる俺なのだ。俺の本性であり、正体なのだ。

 勢事は自分のために祈りを捧げてくれた人たちに、感謝の言葉を述べた。目に涙を浮かべている人もいる。

 語りながら、心では別のことを考えている。

 おそらく手術は成功し、これからまだしばらくは、この心臓は鼓動を打ち続けるのだろう。だったら、もう一花、二花と咲かせてやろうじゃないか。見栄えの悪い泥の花でいい。誰に評価される必要もない。誰からも支配されず、誰にも依存せず、自分が自分らしく生きていくための、それは自立のための花なのだから。

 勢事は手術の成功を願う人たちの大きな拍手に包まれながら、あらためて闘争の中に身を置く覚悟を固めていた。

(つづく)

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