戦後体制構築への天皇の関与

政治経済学者 植草一秀

 敗戦からまもなく80年の時間が経過する。日本敗戦の日は9月2日。8月15日を〈終戦記念日〉としてきたが適正と言えない。8月15日はポツダム宣言受諾の決定が国民に通知された日。降伏文書に調印がなされたのは9月2日。9月2日をもって正式に日本は敗戦を迎えた。

 敗戦から50年が経過した1995年に村山富市首相が談話を発表した。このなかで重要なことが述べられた。村山首相は談話で次のように述べた。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」

 「日本が国策を誤ったこと」「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたこと」「あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明すること」が明言された。

 国策を誤り、植民地支配と侵略を行ったことを「疑うべくもないこの歴史の事実」として、この歴史の事実を「謙虚に受け止めること」が明言された。過去の過ちを痛切に反省し、アジアの人々への心からのお詫びを表明したものである。「和解の作法」とは、被害側が許しを明示するまで加害側がお詫びの姿勢を維持することを根幹とする。加害側は永遠に謝罪の気持ちを持ち続けなければならない。

 1995年に極めて意義深い談話が発出された。敗戦から80年。改めて日本の首相が思いを表明する時機が到来している。参院選で石破内閣与党が大敗して石破首相の責任問題が浮上している。石破首相は退陣の意思を固めていると思われる。しかし、退陣する前に敗戦80年の談話を発表することを考えていると思われる。その談話を発表するのは8月15日でなく9月2日になる。

 「日本敗戦の日」は9月2日であって8月15日ではない。このことを改めて確認する意味を兼ねる。石破首相が9月2日に談話を発表して首相の座を退く決意を固めているとすれば、この意思は尊重されてしかるべきだ。この前に法的に石破首相が退陣に追い込まれる事由が生じれば、法に基づく対応を取ることが必要になるが、そうでなければ9月2日の談話を花道に首相を退くのは適正である。

 いま辞任すれば敗戦から80年の節目が混乱のさなかに置かれることになる。これは避けるべきだ。敗戦から80年が経過するが、敗戦処理はまだ終了していない。ポツダム宣言第12項に次のように記された。

 十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

 日本が主権を回復するときに連合国の占領軍が日本から撤収することが明記された。1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約にも次のように明記された。

 第六条(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。

 いかなる場合も講和条約発効から90日以内に占領軍が日本から撤退することが明記された。しかし、敗戦から80年が経過するいま、なお米軍が日本駐留を続けている。その根拠は上記のサンフランシスコ講和条約第6条の但し書き。第6条に次の文言が付記された。

「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」

 日本は講和条約に調印したその日に、日米安保条約にも調印させられた。この安保条約に次の条文が置かれた。

 第3条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する

 米軍の駐留に関する規定を「日米行政協定」で決定するとした。講和条約と日米安保条約が調印されたのは1951年9月8日。安保条約の調印に立ち会った日本国代表は吉田茂ただ一人。国会での審議も一切経ずに、吉田茂が単独で署名した。安保条約に明記された「行政協定」は1952年2月28日に調印された。行政協定は内閣一般行政事務に位置付けられ、吉田茂首相は国会審議や承認を経ず、日米外務当局者交渉だけで日米行政協定を制定した。

 この行政協定に次の定めが置かれた。

 第2条 1 日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第一号に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許すことに同意する

 1960年に日米安保条約が改定され、これに伴い日米行政協定は日米地位協定に変更された。60年安保に付随する地位協定は国会の承認を要する安保条約の付属協定とされたが、安保条約自体が審議半ばで強行採決されたため、28条からなる地位協定の実質審議は行われていない。日米安保、日米地位協定によって敗戦後の日本に米軍が駐留し続けることになったが、日米安保、地位協定をめぐる日米交渉で米国の全権を付託されたのはジョン・フォスター・ダレスである。

 1951年1月26日に来日したダレス米特使は、「我々は日本に『我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利』を、獲得できるであろうか?これが根本的な問題である」としたが、同時にスタッフ会議では「日本にこれを飲ませるのは非常に難しい」とした。しかし、結果としては米国は日本から満額回答を獲得し、憲法を超越する米軍特権までをも獲得した。この過程で米国の関与拡大を主導したのは昭和天皇であった。

 1947年5月6日に天皇とマッカーサーの第4回会談が行われた。日本国憲法が施行されて3日目のこと。日本国憲法によって天皇は政治的権能を失っていたはずだった。この会見で昭和天皇は「日本の安全保障を図るためにはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥のご支援を期待しております」と述べたとされる。

 敗戦後の日本の安全保障に米国が関与することを昭和天皇が求めたとされている。さらに、この4か月後の1947年9月19日に、米国による沖縄および琉球諸島の軍事占領を継続することを希望する「沖縄メッセージ」が発出された。昭和天皇は吉田内閣による講和条約締結に向けての政府交渉とは別に、日米交渉のルートを開設することにも注力したと見られている。

 この〈別ルート〉交渉を軸に講和条約・安保条約・行政協定の三層構造の敗戦後日本統治の枠組みが組成されたと考えられる。1950年6月に来日したダレスは、帰国前日の6月26日に、昭和天皇の「口頭メッセージ」を宮内庁式部官長松平康昌からニューズ・ウィーク東京支局長コンプトン・パケナムを通じて受け取った。

 「口頭メッセージ」は講和問題を論じるために「多くの見識ある日本人」を含む諮問会議が設置されるべきであろうことを示すものだった。「多くの見識ある日本人」とは軍国主義的な経歴を持つ者として公職から追放されてきた人々のことを意味すると考えられる。

 こうして、マッカーサー・吉田茂の公式ルートではない、昭和天皇・ダレスのルートを軸に講和条約・安保条約・行政協定の三層構造による敗戦後日本の基本構造が組成されたと考えられる。敗戦から80年目の節目に当たるいま、戦後体制の組成プロセスを再検証し、その是非を考察することが極めて重要である。


<プロフィール>
植草一秀
(うえくさ・かずひで)
1960年、東京都生まれ。東京大学経済学部卒。大蔵事務官、京都大学助教授、米スタンフォード大学フーバー研究所客員フェロー、早稲田大学大学院教授などを経て、現在、スリーネーションズリサーチ(株)代表取締役、ガーベラの風(オールジャパン平和と共生)運営委員。事実無根の冤罪事案による人物破壊工作にひるむことなく言論活動を継続。経済金融情勢分析情報誌刊行の傍ら「誰もが笑顔で生きてゆける社会」を実現する『ガーベラ革命』を提唱。人気政治ブログ&メルマガ「植草一秀の『知られざる真実』」で多数の読者を獲得している。1998年日本経済新聞社アナリストランキング・エコノミスト部門第1位。2002年度第23回石橋湛山賞(『現代日本経済政策論』岩波書店)受賞。著書多数。
HP:https://uekusa-tri.co.jp
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