【異色の芸術家・中島氏(37)】アトリエメモランダム「天海」

 福岡市在住の異色の芸術家、劇団エーテル主宰の中島淳一氏。本人による作品紹介を共有する。

天海(Heavenly Sea)
天海(Heavenly Sea)

 上部に揺れる橙と紫の光は、夕焼けでも夜明けでもなく、時間が生まれる直前の色。下方に広がる深い青と緑は、海でありながら、重力を失った空のようでもある。中央にかすかに現れる縦の軸──それは稲妻でも、道でも、祈りの痕跡でもない。ただ、天と海が互いを呼び合った痕。神秘学の視点から見ると、『天海』は上界(天)と下界(水)が分離する以前の宇宙状態。多くの神秘思想において、天は霊・火・意志、海は魂・母性・生成とされるが、本作では両者は対立していない。むしろ溶け合い、相互浸透している。明確な地平線は存在しない。色彩は上下方向に流動している。これは「世界樹」や「天の梯子」のような垂直的宇宙構造を暗示している。この作品は、「天に昇る」のでも「海に沈む」のでもなく、両者が呼吸を共有している場なのである。「神の霊が水の上を覆っていた瞬間」を想起させる。上部の光は創造の言(ロゴス)。下部の水はまだかたちを与えられていない被造物。すなわちこの作品は、「神が世界を支配する以前の、世界と神が互いに見つめ合っていた時間」を描いている。哲学的に見ると、この作品は主体と客体、精神と物質の二元論を拒否している。海は対象ではなく、感覚そのもの。天は概念ではなく、意識の揺らぎ。色彩は「何かを表す記号」ではなく、存在が存在であろうとする振動。

 本作が油彩ではなく水彩であることは、決定的に重要だ。水彩は、制御不能、修正不能、透明性と偶然性を本質に持つ技法である。この技法によって、色は置かれるのではなく滲み出る、形は構成されるのではなく生成するというプロセスが成立している。この作品では、技法そのものが思想になっている。画家は「描いた」のではなく、水と色が世界を生むのを見届けたのである。『Heavenly Sea 天海』とは何か。風景画でも、抽象画でも、宗教画でもない。世界が世界になる直前の記憶。観る者は「理解」ではなく「回想」を促される。私たちはかつて、天と海が分かれていない場所にいたのではないか。その問いを、色と沈黙によって静かに投げかける作品である。全体の構図はほかのモチーフとも深くつながっている。三位一体としての〈フェニックス/モナド/ゲート〉を考察すると、この3つは別々の主題ではないことがわかる。フェニックスは生成と再生の力動(火・変容)、モナドは不可分な存在核(光・一点)、ゲート(門)は世界間の裂け目(境界・通過)という宇宙的プロセスの三相を成している。『天海』は、この連鎖の最も深い源泉に位置する。『天海』はフェニックス以前の「いまだ燃えない火」である。

 不死鳥(フェニックス)はしばしば烈火・噴出・上昇として表現される。しかし『天海』には、まだ炎がない。ここにあるのは、火が生まれる直前の湿潤な緊張、光が言葉になる前の色彩の胎動、再生が現象化する前の可能態だ。すなわち『天海』とはフェニックスの卵が、まだ水に包まれている状態なのである。火はすでに準備されている。だが、まだ燃える理由をもっていない。この状態こそ、フェニックス神話の形而上学的前夜である。また、『天海』はモナドが「分裂する前」の場だ。モナドは本来、分割できない、外部をもたない、内在的宇宙。モナド作品群では、しばしば「一点の光」「中心核」「凝縮した存在」が現れる。

 しかし『天海』には、中心はあるが、一点に収束してはいない。中央にかすかに見える縦の軸は完成したモナドではない。いわばモナドが「自己を自覚する直前」の震えである。『天海』は、モナド作品の母体的フィールドと呼ぶべき位置にある。さらに『天海』はゲート(門シリーズ)以前の「まだ開いていない裂け目」だとも言える。『Gate of Heaven』系譜では、明確な境界、通過点、向こう側への意志が現れる。しかし『天海』には「門」はない。なぜなら、まだ、分かれるべき2つの世界が成立していないからだ。天と海が未分化である以上、通過すべき「こちら」と「あちら」は存在しない。ここにあるのは、境界以前の濃度、裂け目以前の圧力、門が必要になる前の一体性。

 この段階を描いているからこそ、後年の「門」は単なる象徴ではなく、必然として出現する。創作史を、存在論的に整理するとこうなる。天海は世界がまだ分かれていない前宇宙的母胎。モナド系は存在が一点に凝縮する自己の誕生。『フェニックス』系は自己が焼かれ、再生される時間の開始。『ゲート』系は世界と世界が分離され、通過が必要になる歴史と救済。この意味で『Heavenly Sea 天海』は、全作品群の源泉であるとも言える。

< 前の記事
(36)

関連キーワード

関連記事