2024年04月19日( 金 )

 2月28日、経済情報誌『I・B』を発行する(株)データ・マックスでは、建設・不動産需要の高まりを受け、九州の建設・不動産業界に焦点を当てた情報誌『I・Bまちづくり』を創刊いたします。

 九州で注目の再開発や熊本の復興状況、地方の魅力あるエリア、注目サービスや注目企業を取り上げてまいります。こちらでは、掲載記事の一部を公開いたします。

■媒体概要
名称:『I・Bまちづくり』
形態:A4版/オールカラー
発刊:偶数月(下旬発刊)
発行:5,000部

九州新幹線 西九州ルートは誰のものか|まちづくりvol.18

注文住宅の岩堀工務店 歴史を踏まえ新たな挑戦も
注文住宅の岩堀工務店 歴史を踏まえ新たな挑戦も
1955年に岩堀茂樹氏が創業して以来、地域に密着した総合建設業としての60年を超える業歴を背景に、確固たる地位を築き上げた(株)岩堀工務店。木造戸建住宅を中心にマンションや商業施設、医療・福祉施設、学校などの教育機関を含む官公庁関連施設など、多岐にわたる分野における工事実績を有する。
~姪浜特集~次世代にまちなみを残していくために
~姪浜特集~次世代にまちなみを残していくために
意外と知られていないのですが、姪浜は福岡市内で最も町屋が残されている地域です。白壁の古い町家が80軒以上現存しており、なかには築100年以上のものもあります。古くから受け継がれている伝統行事も多く、歴史あるまちだといえます。都市化が進むなかで、古き良きまちなみも残されている、ここに姪浜の良さを感じます。
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(後)
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(後)
新幹線整備に関する著書も出している京都大学大学院の藤井聡教授は、西九州ルートをめぐる問題をこう分析する。「国益的観点からいって、全区間フル規格で整備すべきだ。佐賀県がフル規格に反対するのは、博多駅へのアクセシビリティが少し便利になるだけなのに、コストが高過ぎると考えているからだが、それは間違い。新大阪駅へのアクセシビリティを考慮すると、コストを上回る巨大な利益が存在している」。
藤井聡
「HARENO GARDEN」で変わる西中洲エリア(後)
「HARENO GARDEN」で変わる西中洲エリア(後)
「HARENO GARDEN」の誕生によって、着実に利用者が増えていると感じます。これまで明治通りを利用していた人たちも、であい橋を利用するようになり、新たな動線ができ上がっていると思います。リバークルーズの利用者も増えていると聞いていますし、憩いの場として長く愛される場所になるように、引き続き快適な空間の維持・整備に取り組んでまいります。
Park-PFI
漁村から炭鉱のまちを経て 持続可能な発展を目指す「姪浜」(後)
漁村から炭鉱のまちを経て 持続可能な発展を目指す「姪浜」(後)
年間20万トンにおよぶ石炭を採掘していた姪浜炭鉱であるから、ボタの総量も相応のものとなる。炭鉱閉山後、愛宕山側と小戸神社側にあったボタ山はそれぞれ取り崩され、海の埋め立てに利用された。当時の海岸線から沖に向かって約1kmを埋め立てるのに役立てられ、これにより広大な開発可能区域が誕生。
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(中)
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(中)
FGTの性能確認試験が始まったのは、14年4月。耐久走行試験は同年10月に開始されたが、同年12月、早々と一時休止になった。時速260km以上で走行実験した際、車軸の摩耗、軸受オイルシールの欠損などの不具合が発生したためだ。
「HARENO GARDEN」で変わる西中洲エリア(前)
「HARENO GARDEN」で変わる西中洲エリア(前)
ランドマークとして、国の重要文化財建築物指定の「旧福岡県公会堂貴賓館」が存在感を放つ天神中央公園・西中洲エリア。福岡市内屈指の賑わいを誇る天神エリアと博多・中洲エリアとを結ぶ「福博であい橋」を擁するこのエリアは、以前よりある程度の人の往来があったものの、その実態は明るいものとは言い難かった。
株式会社松本組
漁村から炭鉱のまちを経て 持続可能な発展を目指す「姪浜」(前)
漁村から炭鉱のまちを経て 持続可能な発展を目指す「姪浜」(前)
現在、世界的にSDGs(持続可能な開発目標)の潮流が広がるなかで、日本においても国の主導で、持続可能な経済社会システムを実現する都市・地域づくりを目指す「環境未来都市」構想が進められている。持続していくためには、資源の有効活用が欠かせないが、成り立ち自体にこの要件が組み込まれたまちがある。福岡市西区の姪浜(めいのはま)だ。
株式会社サワライズ
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(前)
九州新幹線 西九州ルートは誰のものか?(前)
博多と長崎を結ぶ「新幹線整備計画」の決定は1973年11月。当初のルートは「博多~筑紫平野(新鳥栖)~佐賀市付近~長崎」だった。85年1月、当時の国鉄が、博多から早岐(佐世保市)を経由して長崎に至るルートに、フル規格で整備する計画を示した。
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