2024年05月08日( 水 )

建築物「垂直と水平」の魔物【中編】(4)

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 現在の建築学は「機械構造学」が背景にあり、そこには住まう人間のことが熟慮されづらくなっている。空間の始まりは外界から身を守る“シェルター”の役割から始まっており、“建築”という構造力学が導入されてからは、空間そのものが自立することが優位に立ち続けている。「どういう動線が、どういう人間の心を形成していくか」ということに対する深い考えがない。住む人が不在なのだ。この部分に大きく関わりをもつのが、生活動線の根幹“部屋の間取り”である。「新しいグランドデザインの建て付け」第3弾。前号では垂直に伸びる空間の代名詞として「タワマン」を例に挙げてきたが、今号では水平に広がる“間取り”の課題と可能性を考えてみたい。

個室が生まれた経緯

個室はどのようにして生まれたか。 ​​​​​​​六華苑(旧諸戸清六邸) 公式HP
個室はどのようにして生まれたか。
六華苑(旧諸戸清六邸) 公式HP

 日本の伝統的な建築様式をもつ「和館」と西洋の建築様式をもつ「洋館」が並び建つ住宅形式を「和洋館並列型」という。

 大正期以降、中流層の住宅で“和館に洋館を加える形式”が広がりを見せた。日本建築界の父とされるジョサイア・コンドル(1852~1920)が設計した日本一の大地主・その二代目の家「旧諸戸清六邸(六華苑)_三重県桑名市/1913年」は、木造2階建ての洋館と、木造平屋建て(一部2階)の和館からなる「和洋館並列型」の代表例だ。コンドルは1877(明治10)年、新政府に雇われてイギリスから来日し、現在の東京大学工学部建築学科の教師として、日本初の本格的な建築教育を行った建築家であり、旧諸戸家住宅は、コンドルの晩年の作品として貴重な存在である。

 「和洋館並列型」の原型は、生活の場である和館に、明治天皇を迎えるための洋館を建設したことが始まりとされている。明治天皇は、明治初期に断髪・洋装を実行しており、天皇に相応しい行幸御殿として選ばれたのが、洋館だったというわけだ。そのため、この形式は当初、生活は和館、接客するのは洋館(応接室)というように、機能によって使い分けた。西洋に憧れ続けた日本人は、西洋文化を取り入れることの欲望をもちながらも、まだまだ和式の生活様式を手放せなかった…といったところだろうか。明治20年代に入ると一気にその流れは加速し、明治後期には生活の機能も和館から洋館へ移り、次第に洋館の規模も大きくなる。大正期になると、畳敷きの「和室」を備えた洋館のみの住宅も建設されていった。

 日本の伝統的な建築様式は、畳を敷いた「和室」という部屋だけ残し、その他は西洋の建築に飲み込まれてしまったといえる。明治から執行されたあらゆる場面での“洋風化”。この業界においても、ここがおそらく今の住宅様式の原型である。

日本住宅の原型は大正期

 大正・昭和期にかけては、「中廊下型」が導入されてくる。各居室に直接連絡できるように、廊下を通したレイアウトだ。「中廊下型住宅」は今日のごく一般的な間取りだが、江戸期の住宅にはほとんど見られない。明治期・大正・昭和初期にかけて、中流住宅の主要な間取りの1つとして一般化していった。 「中廊下」が最初に登場したのは「森鴎外・夏目漱石住宅」だ。明治23年から約1年間は森鴎外、明治36年から39年まで夏目漱石が借りて住んだことで知られている東京都・千駄木に建てられた39坪の住宅(1887年ごろ建築)。江戸時代の武家住宅の特徴を示している。現在は、愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。そのなかで最も注目されたのが「中廊下」があることだった。まだまだ未完成ではあったが、森鴎外や夏目漱石という2人の文豪が暮らした住宅は「中廊下」の芽生えを知らせるものだった。それまでの間取りは部屋同士が垂直水平に面し、障子やふすまで仕切られた簡易的な壁である。いわゆる「田の字型プラン」。当然、移動は部屋を横断していくかたちとなり、個室のような感覚はない。日本住宅の多くはこの形式が長らく続いた。今でも田舎の古民家などでは、このような間取りは珍しくない。

森鴎外・夏目漱石が住んだ借家例
(「日本人とすまい/第6回企画展 間取り・MADORI図録」より)

 昭和初期ごろからは、徐々に近代建築の色が濃くなってきた。たとえば、前川國男邸(東京都小金井市/1942年)は、個々の独立性を高めた居間中心の間取り。柱に障子やふすまといった和館様式から洋館へ移っていくなかで登場してくる、大壁や真壁で囲まれた“個室”という文化である。

 清家清(1918~2005)は、プライバシーを重視して個室化が進んだとされる戦後期において、逆に開放的な住宅を提案したことで知られる。都市部で顕著に現れた“核家族化の流れ”を捉えた日本を代表する建築家だ。核家族化にはプライバシーの問題を、同居する多世帯間の複雑な関係から夫婦・子ども間の単純な関係に限定する一面がある。つまり個室化が進むなかで、逆にそれを必要としない状況も進展していた、というわけである。

 子どもが大きくなれば、緩衝空間や仕切りを組み合わせ、各時期に合ったプライバシーを確保すれば良いし、広く空間を残せば、可動式家具を組み合わせて多様な場をつくることができる。清家はこれを「舗設(しつらえ)」といった。「私の家(1954年建築)」はその考えが顕著に現れた清家の自邸で、1954(昭和29)年に建てられた。レイアウトをめぐってはこのように、その時代を代表する建築家がそのときに合った様式を取り入れ、時に問題提起し、その最適解を社会に説いた。

 日本の住宅の転換点は、やはり明治・大正期の洋風化だろう。「和洋館並列型」が日本住宅の西洋化を大きく推し進め、その後、水廻りを中央に集めた「居間中心型」や「ダイニングキッチン」の導入なども経て、「個室」という文化は育まれてきた。大正元年が1912年だから、およそ100年前の話。それから小さなマイナーチェンジはあっても、大きな変化はない。大正期に構想された間取りが、今も継承され、使われ続けている。

 テクノロジーによって物理武装された21世紀の今、そろそろ次の100年に向けた“新たな発想の間取り”が発明されても、いいころじゃないか。少なくとも今の子どもたちが「子ども部屋」で戸惑わないように、大人の教訓を次の世代に生かしていかなくてはならない。

次号につづく


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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