2022年05月24日( 火 )
by データ・マックス

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録

 ジャーナリスト元木昌彦氏による回顧録。
 日本経済が「華やかだった時代」の出版社の内側や、記者たちとの交流を描く。

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

 ジャーナリスト。
 1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
 現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(21)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(21)
平成13年7月。私が講談社から子会社の三推社へ移って間もなく、ノンフィクション作家の本田靖春から手紙をもらった。「このたびは、講談社を退かれるとの便りを聞き、本来ならばお伺いしてご挨拶申し上げるところ、とり急ぎ書状で深く深く感謝の言葉を述べさせていただきます。貴兄が講談社にもういないのだと思うと、ポツカリ心に大きな穴が開いたようで、寂しくなります。そして、一つの時代が終わったなあ、という思いにとらわれるのです」
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(20)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(20)
講談社の株主総会は毎年2月後半にある。私は役員になったことがないから詳らかには知らないが、局長以上の人事がここで決まるようである。 役員に昇格する者、役員を退任する者、子会社に出向させられる者など、社長以下一握りの人間たちの“意向”で決定され、サラリーマン人生の勝ち組負け組が決まるのである。  私は、社内人事には関心が
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(19)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(19)
振り返ると、私の講談社人生は、編集長を辞してからが「実人生」だったと思う。それまでは夢物語とまではいわないが、地を足で踏んでいなかった、そんな気がする。結婚してすぐに、ジャニーズ問題で婦人倶楽部に飛ばされたときは、心底辞めてやろうと考え悩んだ。だが、まだ私には若さがあった。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(18)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(18)
週現編集長在籍は5年半。社史『物語 講談社の100年』によれば最長である。自分でいうのもおかしいが、他社も含めて、これほど順調だった編集長は、そうはいないと思う。取材先との緊張関係は何度もあったが、編集部内はベタ凪状態だった。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(17)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(17)
私には愛社精神がない。大学は早稲田だが愛校精神など全くない。だが、自分が携わってきた週刊現代、フライデー、廃刊になってしまった月刊現代、ジャニー喜多川の件ですっ飛ばされた婦人倶楽部(廃刊)も好きである。愛しているといってもいい。週現編集長を辞するまでは、講談社という組織に属しているサラリーマンだと考えたことはほとんどなかった。
企業・経済 一般
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(16)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(16)
オウム事件の話に入る前に、週現時代の私の仕事の仕方について触れておきたい。今でも、かつての部員たちに会うと、「あんたの編集長時代は厳しかった」とよくいわれる。私には、厳しくしたという意識は毛頭ない。だが、部員たちの意見をあまり聞かず「独断専行型」の編集長だったことは認める。
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「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(15)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(15)
私が週刊現代編集長だったのは平成4年から平成9年までの約5年半だった。販売に調べて貰ったら、この間の平均実売率は82%を超えていた。あの当時でも信じられないほど高いが、今思い返せば、編集部員に恵まれたことと、私にツキがあったということだろう。
一般 企業・経済
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(14)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(14)
その男は月刊現代編集部にノソッと入ってきて、ボソッといった。「元木さんいますか」それが松田賢弥との出会いだった。先輩からの紹介だった。「記者をやりたい奴がいる。会って、使えなかったら断ってくれ」。業界誌をいくつか渡ってきたらしい。年は30代半ば。「あんた永田町は詳しいか?」と聞くと、まだ行ったことがないという。
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「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(13)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(13)
胸を張っていえることではないが、このジャパングリッシュを生み出したことで、現代だけでなく、ポスト、宝島(光文社から出ていた週刊誌。後に休刊)、アサヒ芸能、週刊大衆など多くの週刊誌が部数を伸ばし、平成9年(1997年)まで続く週刊誌第二期黄金期を迎えることになったと、自負している。
企業・経済 一般
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(12)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(12)
汗が体中から噴き出してくる。冬近い晩秋の街を走るタクシーの中は涼しいはずなのに、私の頭も顔も背中も、汗水漬くである。おまけに、講談社が近付くにつれて動悸が激しくなる。田中角栄邸を過ぎて横道に入り、大塚警察のところを曲がれば社だが、私は運転手に、「申し訳ないが、もうしばらく走ってもらえないか」と告げる。
企業・経済 一般
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(11)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(11)
7月9日、ジャニーズ王国を一代で築いたジャニー喜多川が亡くなった。享年87。翌日のスポーツ紙は全紙、一面全部を使って賛辞を贈り、彼の死を悼んだ。同じ日の朝日新聞も一面で彼の死を大きく報じ、第二社会面でもジャニー喜多川の「評伝」を掲載した。
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「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(10)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(10)
編集部の床の上に鮮血が小山のように盛り上がっていた。朝、10時を少し過ぎた頃、やくざ風の2人組の男がずかずかと入って来て、アルバイトの女の子に、「編集長はいるか?」と聞いた。
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「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(9)
「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(9)
幸福の科学事件に触れる前に、ビートたけしの率いる「たけし軍団」がフライデー編集部に乗り込んできた事件の「後日談」について書いておきたい。この事件をきっかけに、写真週刊誌の取材手法に批判が集まり、部数が激減したことは前に書いた。野間惟道社長(当時)がこう表明した。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(8)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(8)
フライデー編集長は森岩弘。雑誌全体の流れを掴むのには進行係がいいだろうといわれた。まあそうだろうなと了解した。進行表をつくり、毎朝、各担当者が間違いなく入稿したかを確認して、印刷所に送る仕事である。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(7)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(7)
講談社はオーナー企業である。上場はしていない。小学館、新潮社もそうだが、菊池寛がつくった文藝春秋はそうではない。したがって派閥ができる。オーナー企業は、社長にはなれないのだから、派閥はできないが寵愛人事や発作的人事がまかり通ることがある。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(6)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(6)
今回書くのはカネにまつわる話だが、決して告発しようというのではない。いかに講談社という会社が今とは違って、すべてにおいておおらかだったかを示す証左として書いておこうと思ったのだ。私など到底敵わない編集力や人間力を持った先輩たちがいた。筆頭は牧野武朗であろう。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(5)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(5)
中西ミツ子は私にこういった。「今の心境ですか?私の人生だから、やらないで後悔するよりも、やって後悔したかった。私も必死だったし、宇野さんも必死だった。計算なんかできなかった。結果は、私にとってもプラスにならなかったけど、あの時やった、そのことに意味があると思っています」
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(4)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(4)
昭和が終わった日のことはよく覚えている。1月7日、土曜日。私は地下鉄東西線「落合」駅から中山競馬場へ行こうとしていた。駅へ降りる前に念のためラジオをつけた。君が代が流れてきた。競馬は中止になった。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(3)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(3)
講談社入社以来、平成13年(2001年)に子会社にすっ飛ばされるまで、銀座のクラブや新宿のゴールデン街を含めて、呑み代とタクシー代は一番使った。
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平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(2)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(2)
お袋にビジネススクールに行くとウソをついて、当時新宿にあったバーテンダースクールへ通い出したのは、大学1年の秋だった。カ…
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