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2019年09月17日 18:02

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(19)

 振り返ると、私の講談社人生は、編集長を辞してからが「実人生」だったと思う。

 それまでは夢物語とまではいわないが、地を足で踏んでいなかった、そんな気がする。

 結婚してすぐに、ジャニーズ問題で婦人倶楽部に飛ばされたときは、心底辞めてやろうと考え悩んだ。だが、まだ私には若さがあった。

 しかし、一局局長から一人の部下もいない新企画室長に降格した時は50代半ばである。いくらいきがっても、盛りをとうに過ぎた老残兵だった。

 少し前に話を戻そう。局長専任になってから怪文書が撒かれたことはすでに書いた。それと共に、講談社の前に右翼の街宣車が来て、怪文書にある内容を拡声機でがなる(どなる)ようになった。

 総務部長に事情を聴かれ、全くの事実無根だ、気にすることはないと説明した。何なら私が街宣の連中に会って話をするともいった。

 だが、当時広報にいたHという男が、「元木さんは出ないほうがいいですよ」と止めるのだ。このHという男、私がフライデー編集長を辞める時、「自分に編集長をやらせてくれ」といいに来た。私がうんといわないと、鈴木俊男役員の家まで行って直訴した人間であった。

 仕事は真面目にこなすが編集長の器ではない、そう私は思った。もちろん、そのことを恨んで、彼が何かを仕組んだというのではない。彼が街宣が来るのを、なぜか嬉しそうにしているのを見て、私の僻み根性がそう思っただけのことだ。

 怪文書の内容のほとんどはいいがかりとしか思えないものだったが、一点だけ、女性に関するところだけは、私にも覚えがあった。

 編集長時代だったと記憶しているが、彼女と一緒にいるところを、岡留安則の噂の真相に、写真を撮られたことがあった。

 掲載された写真はボケボケで、誰が誰やらわからないお粗末なものだったが、私の行動を噂真に流している人間がいたのである。

 そのだいぶ後になるが、Sという週現編集長と編集部内の女性との噂が流れていた。私は他人の色恋にまったく関心がないが、噂真の最終号だったか、2人のツーショットが掲載されたが、これは驚くほど鮮明に写っていた。

 だが、その後も、Sは編集長を辞めることなく、順調に出世していった。件の女性は文庫編集部に異動になった。ある時、私に電話をかけてきて、江上剛の文庫の解説を書いていくれないかと頼んできた。

 オフィスに来た彼女に、「あんたはSと付きあっていたそうだな」と聞くと、「アハハ」と笑って、「そうなんですよ」とあっけらかんといった。

 ことほどさように、講談社という会社は昔から、男女関係には大らかな社風であった。

 私が仲人をお願いした先輩に杉山捷三という男がいる。剣道の段位は3段だが、実戦にはめっぽう強いといわれた。

 剣道界では知らない人のない講談社「野間道場」の道場主を長年務めてきた、遠州生まれの森の石松のような男である。

 週刊現代に異動した時の直属のデスクだった。挨拶するなりいきなり、「オレんとこは色物班だからな」といわれ、当時、全盛だったトルコ風呂(当時の呼称)取材ばかりをやらされた。

 毎週、2,3万もらって川崎・堀之内や吉原のトルコに入り、女の子がどういうサービスをしてくれたのかを、編集部に戻って、微に入り細を穿つデータ原稿を書きなぐる。

 当時は学生運動をやって大学を追いだされ、取材記者になった人間が多くいた。なかにはウブな新人もいて、トルコ取材から戻ってきて、「私の相方は処女だったんですよ」と興奮して大声で報告する奴もいた。

 そうした連中を束ねていたのが杉山デスクだった。酒が好きな人で、私が入稿を終えると、「一杯行こうか」と、池袋の汚い中華屋に行って、朝、サラリーマンたちがゾロゾロ駅から吐き出される流れに逆らいながら、家路に向かうことが幾度となくあった。

 こちとらは帰って、3,4時間も寝られればいい方で、飯も食わずに編集部に駆けこむのだが、杉山御大の出社は早くて夜の8時過ぎになる。

 朝日ジャーナルを小脇に抱え、「諸君、やっているかね」と悠揚迫らぬ態で、自席に腰かけておもむろにジャーナルを読みだす。

 時々、「僕はね、ロラン・バルトが好きでね」などと宣って、バルトなど齧ったこともない私たちを煙にまく。時には寝足りないのか、編集部の奥の仮眠室でお休みになる。

 朝方、こちらの入稿が終わると、御大から「飲みに行こう」と声がかかる。たまに「今日は風邪ひいちゃってよ、今晩は飲まないからな」と宣言することがあるのだが、入稿が終わると「ちょっとだけな」と、背広を肩に引っ掛けて歩き出す。

 私も酒は強いと自負していたが、この状態が続くとアル中になるなと、いささか心配になったものだった。太田胃散の大きい缶が3日でなくなった。

 ある時期、夕方になると手が震え、編集部の壁に多くの虫が這うのが見えるようになった。あわてて社の前にあった蕎麦屋へ飛びこみ、ビールの大びんを2本一気に飲むと、手の震えが収まった。

 そんな症状も、毎日の酒浸りで、アル中のほうも呆れたのだろう、いつか影を潜めた。

 杉山御大、強いのは剣道と酒ばかりではなかった。なかなかの艶福家だったのだ。

 奥さんと同い年の社内の女性を彼女にして、2つの家を行き来していたのである。その女性は、杉山御大よりも編集者としての能力は数段上で、今でも版を重ねている名酒事典も彼女の企画である。

 私が驚いたのは、婦人倶楽部へ異動して編集会議に出た時だった。倶楽部誌の売り物は、婦人公論が形つくったといわれる「告白手記」だった。

 例えば、社内不倫というテーマが出て、部員全員で、どういうケースだったら読者に受けるのかを考えるのである。

 そこで編集長が、杉山ケースを持ち出してきたのである。「杉山君のような不倫の場合、奥さんと愛人はどんなことを考えるのか?」という「お題」を巡って、みんなで話し合うのだ。

 社内の人間の実名を出してケーススタディにするという文化は、一局にはなかった。杉山御大にそのことを話したら、「バカ野郎」といったが、まんざらでもないようだった。大人である。

 その杉山御大に仲人を頼んだのだから、今度は彼の方が驚いた。「よせよ、俺なんかに頼むと出世できねえぞ」と断られた。たしかにその通りになったのだが、その時は何とか頼み込んだ。

 その頃は、杉山夫妻は離婚の危機だった。杉山夫妻を前に、「何とか、オレたちの結婚式までは離婚しないでください」とお願いをした。

 面白いといっては語弊があるが、以来今日まで、杉山夫妻は離婚しなかったのである。私たちが「鎹(かすがい)」になったようだ。

 杉山御大の話が長くなったが、いま少し。彼はその後、週現から出て、部署を転々とする。ある時、友人で、茗荷谷駅近くにある寺の住職が、アメリカの国防総省から東京裁判の膨大な映像資料の権利を手に入れてきて、映画にしないかと彼に話を持ち込んだ。

 ちょうど講談社が60周年を迎える前だったので、杉山が社の上に話すとOKが出た。だが、それからが大変だったのである。

 監督は黒澤明には断られたが、『人間の条件』の小林正樹が引き受けてくれた。六本木の鳥居坂マンションに大きなメゾネットを借り、光森忠勝記者を常駐させ、監督や脚本家を缶詰にして始まったが、いくら待っても脚本が出来上がらない。

 そのうち、脚本家を入れ替えたりして、何とか形になるまで3年近くかったのではないだろうか。毎日の高級な弁当、監督や脚本家への毎月の支払いなどで、講談社の上層部から「こんなにかかるんだったら、止めちまえ」という無責任な声が上がった。杉山には針の筵だったと思う。

 彼の「なんとかなるよ」という超楽観主義で乗り切った。

 だが、ようやく出来上がった映画は8時間近くあった。興行側が、これでは1日1回しか上映できないといい出し、杉山が小林監督を何とか説得して、4時間半の長さにして公開された。

 映画は大絶賛された。外国の映画祭にも招待され、杉山と小林監督は連れだって出席した。今でも、毎年8月15日には、『東京裁判』がどこかのテレビ局で流される。

 講談社が誇れる唯一の映画といってもいいだろう。だが、その映画のクレジットに杉山の名前がないのである。

 最初は、プロデューサーとして杉山の名前はたしかにあった。だが、経緯は詳らかには知らないが、脚本家から、「杉山の名前を消して、我々の名前を入れろ」というクレームが来たというのである。

 「そんなバカな」と私は思うが、気のいい杉山御大は何もいわず退いてしまうのだ。そんなこともあって、講談社100史に『東京裁判』のことは当然出ているが、最大の功労者である杉山の名前はどこにも出てこない。

 杉山という男、映画やポルトガル辞典を作ったり、専務の服部敏幸を剣道界の重鎮に仕立て上げたりと、自分の本業以外では活躍しきりなのだが、女性問題もあり社の評価はあまり高くはなかった。

 だが私は常々、「杉山のような人を抱えている講談社は懐が深い」と公言していた。

 残念だが、今の講談社は、こうした人間として実に面白味のある社員を抱えておく度量はなくなってきているように思う。

 講談社の“乱脈”ともいえる男女関係から見れば、私の当時の女性問題など取るに足りないことで、いくら女性社長でも、この講談社のよき社風は変えないだろうと、勝手に思い込んでいたのである。

 だが、私を一局から外そうという目論見は、フライデーの写真取り違え問題あたりから、確実に動き始めていたようだ。

 私の左遷だけではなく、10年も平取り最長不倒を続けてきた鈴木俊男を、子会社のサイエンティフィクに追いだしたのだ。

 そして、広報室長をやり定年直前だった杉本暁也を一局担当の役員に持ってきたのである。杉本本人も驚いたらしい。

 元木色を一掃したいという意図が見え見えである。そこまで社の上から嫌われていたのかと思ったが、しょせんはサラリーマン、どうすることもできはしなかった。

 だが、私は逆境に強いと、自分では思っている。追い込まれれば追い込まれるほど、「なにくそ」という火事場のバカ力が出てくる。

 この時も、すぐに頭を切り替え、週刊現代に代わる新雑誌を作ることに専念した。

 一度だけ、雑誌を出して失敗したことがあった。98年に横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝したので、横浜の増刊号をつくろうと考えた。

 私は父子二代の由緒正しい巨人ファンである。大洋(後の横浜)なぞ気にしたこともなかった。だが、何もやることがないので、やってみるかという程度で始めたのだ。

 部員ゼロなので、あちこちから手伝いに来てもらって、何とかつくり上げた。私は最初、この「横浜おめでとう」号を、神奈川県内だけで売ることを考えていた。

 巨人のように全国区のチームなら広く売ってもいいが、横浜はしょせんローカルなチームである。かえって地域限定版のほうが話題になり、販売的にもそれがいいのではないか。

 だが、販売からクレームがついた。大阪、名古屋、東京、それに首都圏で売りたいというのである。週現時代なら撥ねつけていただろうが、そうもいかず、発売したが惨敗であった。

 その時の教訓は、自分が好きでもないものはやるな、自分が考えた方法論は何といわれても譲ってはいけないという、至極当たり前なものだった。

 新雑誌案を考える中で、一番私がやりたいと思ったのは日本版の『TIME』を出すことだった。

 当時もニューズウイーク日本版は出ていた。部数は20万部弱だったのではないか。世界市場で比べれば、『TIME』の知名度はニューズウイークなど問題ではない。

 常盤新平の『遠いアメリカ』のように、英語がロクにわからないガキの頃でも、『TIME』は私にとって憧れだった。あの薄く張りのある紙質。丸めて持てばそれだけで絵になった。

 週現編集長時代に、ああいう紙を使えないかと、資材の人間に相談したことがあった。だが、日本では手に入らないし、入ったとしても一誌だけでは高くて採算が合わないといわれた。

 ならば、本場の『TIME』の日本語版を出してやろう。勝算はあった。ニューズウイーク日本版は、ほとんどがアメリカ版(極東版かもしれないが)を翻訳しただけである。

 私は、最低でも記事の3分の1は、日本で取材したものを入れるよう交渉するつもりだった。時間的な問題があるから、日本語を英語に翻訳して『TIME』編集部に送り、チェックしてもらう時間はない。

 日本語の記事の編集権は日本側にある。そうしたことを向こう側に認めさせることができれば、最低でも50万部の週刊誌はできる。

 講談社が『TIME』を出すことで、政治家や権力者たちを引っ張り出しやすくなる。

 そう思い立った私は、フライデー前編集長の谷雅志を伴って、ニューヨークへ飛んだ。

 事前に連絡してあったが、迎えてくれたのは副社長クラスだったと記憶している。

 向こう側も、こちらの提案に前向きだというサインだと思った。案の定、こちら側の申し出を全て飲んでくれた。その上、そこで出している『ピープル』や『スポーツ・イラストレイテッド』も、自由に使ってくれていいというではないか。

 一番心配していたのはロイヤリティーである。日本では当時、『PLAYBOY』や『PENTHOUSE』を出していたが、ロイヤリティーが高くて、いくら売れても儲からないため、苦労していた。

 だが、これも、向こう側が提示してきた金額は、こちらが想像していたものよりはるかに安かった。

 というのも、私が事前に調べたところでは、『TIME』は以前、日本の商社に依頼して日本語版を出せないか市場調査をしていたのだ。

 その時の結果では、単独では難しい、どこか日本の出版社と組んでやるしかないというものだったようだ。

 そこに私が飛び込んだのだから、向こうにとっても渡りに船だったのである。

 この好条件なら、講談社も理解を示すだろうと、自信を持った。『TIME』側は、すぐにファーイーストの責任者を行かすから、具体的なことは彼と詰めてくれといった。

 日本に帰って数日後、シンガポールにいる責任者から連絡があり、1週間もたたないうちに社を訪ねてきた。『TIME』側は積極的だった。

 数日後、社長も出席する「新雑誌検討委員会」が開かれた。

 私はいくつかの案を事前に出していたが、『TIME』日本版でいけると考えていた。

 だが、予想外に社長以下、専務、常務たちの反応は冷ややかだった。彼らのいい分は、ニューズウイーク日本版が苦戦しているのに、同じような雑誌を出しても勝算がないというものだった。

 私は、『TIME』の優位性、破格のロイヤリティーの安さに加えて、日本で取材した特集を3分の1も入れられることで、ポストや文春、新潮にはできないグローバルな週刊誌ができるメリットを説明したが、聞き入れられなかった。

 今でもそうだが、日本の週刊誌は国内偏重である。海外情報といっても、せいぜい韓国や中国、それも嫌中、嫌韓物が中心である。

 だいぶ後になって、後輩の古賀義章が外国メディアのニュースを日本人に紹介するクーリエ・ジャポン(COURRiERJapon=平成17年に創刊したが現在はネットのみ)を出した。

 だが、私が提案した時、『TIME』日本版を出していれば、グローバル化の流れ中で大きな存在になっていたはずだと思う。

 私が提案した中で採用されたのは、インターネットを使った週刊誌、Web現代だった。採用理由は、私が書いた「紙も印刷も要らないから低予算でできる」という点だった。

 「これだったらカネもそうかからないだろうし、いつでも止められる。やってみよう」

 その程度のことだった。

 Windows95が発売されてからわずか3年。まだ大量の情報を流せるブロードバンドなどが普及するずっと前であった。

 私の長年の友人、日置徹がNECにいた。日置は週刊ポスト編集部にいた頃に知り合い、彼はその後独立して、オフィス「データベース」をつくった。

 ジャーナリスティックな感覚と、新しい情報ツールなどにも強い日置に、色々教えてもらっていた。

 そうした才能を買われてNECに入ったのである。

 彼はNECに入って、Windows95が出た頃、私にNEC製の小型PCを持ってきてくれた。

 「これからは、こういうものを使って原稿も編集もやるようになる。今から使えるようになっておいた方がいいよ」

 誰しも動機は似たようなものだが、私もネットにあるヌードが見たくて、懸命にやり方を覚えた。だが当時の環境では、ヌード写真一枚ダウンロードするのに数時間かかった。

 自宅の自分の部屋で深夜、ダウンロードを始めるのだが、なかなか肝心なところが拝めるまでに時間がかかり過ぎて、そのまま寝てしまうことがよくあった。

 朝起きてみると、ようやく完了しているのだが、そこにカミさんが入って来て、慌てたことが何度かある。

 欲望は成功の母。おかげでネットを使えるようになったし、原稿も、ワープロ専用機を使っていたのだが、PCで打てるようになった。

 今思い出せば、あの頃は、ネットは万能ツールで、これさえあればできないことはないと、無邪気に信じることができた時代だった。

 マイクロソフトの日本支社の連中が私に、「もうすぐ紙の本は絶滅します。10年もしないうちに紙の本はRealPaperといわれるようになる」などと、滔々と話していたが、あれから20年以上も経つのに、紙の本も雑誌もまだ健在である。

 さて、Web現代について少し書いておきたい。最初は、週現の記事をネットに上げることを考えていたのだが、実際に上げてみると、文字量が多すぎて、とてもじゃないが読めない。

 3分の1ぐらいに要約してとも考えたが、かなりの労力を要するし、編集権はないから、掲載するための手続きが煩雑になる。

 それなら一からオリジナルを作ってしまえと、無謀なことを考えた。毎週、水曜日に更新する。トップページは電車の中吊りと同じにする。

 プログラミングのことなど全くわからないから、プログラマー泣かせの要求を次々に出した。

 日置を通してNECのBiglobeに協力してもらえることになり、凸版印刷にも名前だけ貸してくれと頼み込んで、講談社と2社の協業という形で、講談社で記者発表をした。平成11年(1999年)の秋であった。

 インターネットを使った本邦初のWeb週刊誌創刊というキャッチフレーズの注目度は高かった。

 一番やりたかったのは、小さなテレビ局を編集部の中に作り、報道番組を流すことだった。

 もう少しすれば、ノートPCさえあれば、世界のどこからでもライブ中継ができるようになる。そうなれば、講談社も自前のテレビ局を駆使して、ジャーナリストや作家たちにノートPCを持たせ、紛争地域や災害現場から、生々しいレポートをしてもらおう。夢は無限に膨らんだ。

 創刊前、社長たちに集まってもらって、新社屋の講堂で、たしか長崎からだったと記憶しているが、ライブ中継をやった。

 本当は、沖縄からやりたかったのだが、NEC関連の会社が沖縄にはなかった。谷が現地からレポートして、社内の私とやり取りするのだが、映像はかなり鮮明で、音声のタイムラグはあるが、慣れてしまえば難しいことはなかった。

 社内へのプレゼンとしては大成功だった。

 創刊と同時に、元アナウンサーの女性をMCにして、ニュースや週現、フライデーの速報、編集者に来てもらって取材の裏話、作家に新刊について語ってもらうなど、コンテンツはいくらでも考えられた。

 だが、編集部内はブロードバンドにして、PCも常に最新のものを使ったから、動画でもスムーズに見られたが、一般の人のPC環境では、動画は、しばしばフリーズしてしまった。

 後になってITに詳しい人間たちが、「元木さん、Web現代はとてもいい発想だったけど、時代が早すぎたね」といわれた。

 たしかに、そうだとは思うが、Web現代をやったことで、IT分野では他社に遅れをとっていた講談社が、先頭に躍り出るきっかけはつくることができた。

 当時の担当役員は、野間佐和子社長の一人息子である野間省伸現社長であった。

 私がWeb現代編集長を辞めた後、彼はデジタル局をつくり、デジタル編集部と販売、広告を一つにしてIT戦略を推し進めていく。

 Web現代はデジタルの実験場、何でもやってみようと思った。

 その年の7月23日、ANA61便でハイジャック犯が操縦室に入り、機長を刺殺するという事件が起きた。

 われわれはその時のコクピット内での音声を入手した。もちろん、流してはいけない部分を消して、創刊号で流した。大きな反響はあったが、当時の郵政省からは厳重な抗議文が私宛に来た。

 部員たちがひねり出した「回転寿司占い」はかなり評判になった。

 立川談志師匠の息子にビデオカメラを渡して、師匠の動画放談を撮ってもらって流した。

 10代の女の子3人組をアイドルにしようと、「リンクリンクリンク」と名付け、CDをつくり、あちこちでプロモーションをやった。その中の一人が後年、落語家の立川志らくの奥さんになる。

 通販もやった。全国のおいしいものをWeb現代上に載せ、売れると何%か、その店からもらえる仕組みだったが、当時はクレジット決済の仕組みがわかりにくく、ほとんど売れなかった。

 友人の版画家・山本容子の版画も売った。連載をまとめて紙の本にして販売した。

 ノンフィクション・ライターや作家、編集者たちに取材のノウハウを語ってもらって、それを次々にアップした。

 これは販売の人間から、「本にしましょう」と声がかかり、平成13年秋に『編集者の学校』として講談社から出版された。

 初年度は5億円の赤字が出たと、上から怒られた。当時はPC一台が何十万もしたうえ、半年足らずでモデルチェンジをした。機能がどんどんよくなるから購入しないわけにはいかない。

 部内のブロードバンド化も一からしなくてはいけなかった。

 優秀なプログラマーたちを雇った。その当時の人たちは、今ではIT界のベテランとして大活躍している。

 記者やITに詳しい編集プロダクションへの支払いも、かなりの額になった。

 当時、講談社が出す新雑誌の広告費用は5億円といわれていた。広告代と考えれば何のことはない。私はそう考えていたのだが、どうやら社の上は、そうは考えなかったようである。

 あれから20年が経つ。現在、講談社のマンガを中心としたデジタル化は、他社と比べても着実に進み、収益をあげ、社業に貢献しつつある。

 Web現代は、私が講談社に残した最後の足跡になった。平成13年春。私は子会社に出向させられるのである。

(文中敬称略=続く)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

連載
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