2022年05月25日( 水 )
by データ・マックス

同居人いるのに孤独死、これってアリですか?(中)

 コロナ禍で孤独死が増えているという。主催する「サロン幸福亭ぐるり」のあるUR((独)都市再生機構)でも、男性の孤独死が起きた。おそらく60代だと推測する。
 以前は、男性が朝夕にウオーキングするのをよく見かけていた。筆者も1日8,000歩を目標とするウオーカーのため、すれ違うことが多いが、挨拶を交わす仲ではなかった。その彼の姿が突然見えなくなった。やがて、孤独死したという噂が流れた。それも、長男がいたという。同居人がいるのに、なぜ孤独死が起きたのか。

「同居内別居」で家族という意識も霧消

 それでも、父親の死に気づかなかったのだろうか、という疑問は残る。作家の重松清氏は、「1つ屋根の下だけど、2つの生活があって、なかなか交じり合わない。あえて介入しない。お互いに自由に過ごす。ところがこういう不幸が起きると、『なんで子どもが一緒に住んでいながら気づかないんだ』と言われてしまう。意識して『元気なのかな』と気にかける。“生存証明”のようなことを意識しなければ、同じように親の死に気づいてあげられなかったという不幸は増えてしまうのではと思います。まだ元気で、自分の身の回りのことができる親御さんに対して、“自由にやらせてあげるのが親孝行”というのが、裏目に出てしまうこともあるんじゃないかと思う」と指摘する。

 確かにこうした思いを否定できない。ただし、親の死を確認してから4カ月もの間放置していた事実をどう考えればいいのだろうか。コロナ禍のドラッグストアは過酷なほどに多忙を極め、心身ともに疲れ果てていたということは十分に考慮できる。しかし、その間、時間を見つけてはキャンプに出かけている。

 息子は父の死を、「割り切った」「シャットダウンした」と証言している。父の死について「考えたくなかった」のだ。「面倒だった」のだ。「家族も近くに住んでいない。相談できる人もいない」ともいった。さらに、息子は「火葬の費用は自治体が出してくれることを知っていれば、お願いした」というが、おそらくいい訳だと筆者は思う。

 「同居内別居」という家族の形態は、おどろくほど多いのではないだろうか。一緒に住んでいても互いに孤立していて、会話すらない。生活時間が違えば食事の時間も、入浴の時間もなにもかもに隔たりができる。1週間の間で1回も顔を見なくても生活できる生活が常態化すれば、もはや相手のことを思いやることも、存在そのものを意識することもない。家族であるという基本的な意識も霧消するだろう。

 懇意にしている葬儀屋がいる。最近無縁仏として市と契約している寺に遺骨を納めることが多いという。社長の岩田氏は、「ご遺族の遺骨の引き取りを拒否されるご家族が増えてきました」と嘆く。「“わけあり”の人は、入院した時点で家族の面会はありません。面会どころか、家族は入院した親の住所も知らないことが多いのです。生活保護受給者なら、身元の調査もしますので、たとえ縁が切れていたとしても、身内に連絡だけはできるのですが…」と言葉を濁す。死亡の通知を発送しても引き取りを拒否する。死亡届は身内しか出せない。見つかっても死亡届に必要事項を記入して、押捺するまでにかなりの時間を要するという。

(つづく)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』(同)など。

(第100回・前)
(第100回・後)

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