2024年04月27日( 土 )

上海の激変~ある日本人経営者から垣間見る(4)

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 前回は野中氏のツキの強さを説明した。この(4)では同氏の卓越した経営能力を紹介していく。日本の中小企業経営者が中国で成功する比率は1%といわれる。その比率1%の勝利者・野中社長の経営手法を垣間見よう。

苦労の総決算・5.5億円住宅をつかむ

 14日日曜日午後、待望の10億住宅の視察となった。「さー10億円の豪邸を見学させて貰おう!」というと、野中夫人から「いや5.5億円の住宅よ!!」と訂正された。ここは10億円であろうと5.5億円であろうといっこうに構わない。野中氏の上海における20年間における命を賭けた汗と涙の努力の結晶として得た成果物の評価には、金額の差はないのだ。この成果物を直視することによってこの経営者の奮闘を垣間見たいというのが、今回の視察の動機であったのだ。

 松江区の外れの田畑が開発され、住宅街が造成されている。マンションの開発が大半であるが、一部一戸建て(中国でいうところの別荘)の開発が行われているのが散見される。基本は建売である。別荘用地は壁で仕切られており、セキュリテイは厳しい。正面口には警備員まで立っている。その開発ゾーンに各戸建てが立っているのだ。正面玄関から野中氏の別荘まで車で5分ほどを要した。自宅別荘の敷地は400坪内外の広さである。

 庭先には野菜畑もあり、さまざまな樹木も植えられて小まめに手入れされている。自宅は地下1階、地上2階建ての煉瓦つくりである。室内は改造工事がようやく終わったという状況だ。住宅の印象は写真からもおわかりいただけるだろう。

 ベッドルーム8室はある。屋内のそこかしこにリビング・談笑ルームが配置されている。地下のカラオケルームも圧巻であった。建坪250坪を下らない広さがあるとみた。この別荘を目の当たりにして野中氏の20年間の凝縮された激闘を思い浮かべることになった。

合弁会社の躓き

 まず上海への工場建設の背景から説明しよう。日本では平成の初めのバブル崩壊ですべての分野で価格戦争となった。野中氏の業界も「ただ安ければ良い」という風潮が蔓延していた。

 同社長は「こんなに価格を叩かれるようでは、我が社が潰れるな!」という危機感に駆られた。そこで「中国で製造するしかないな。中国なら上海だろう」という結論に達し、活路を上海に求めたのだ。構えた最初の工場は上海駅北東3kmに位置するところであった。

 1996年当時、中国で経営するには合弁会社方式が主流であった。上海の起業家が土地を提供し、日本側は資本・設備・技術を提供して会社を設立させるやり方である。野中氏側は工場稼働の実務を賄い上海側は対外折衝・求人確保という任務分担を鮮明にしていた。

 当時の問題点は上海の労働者が工場で働く意味をまったく理解していなかったことだ。まずは手始めに労働モラルから教育を始めなければならなかった。難儀なスタートであった。

 この労働者教育の難儀さについては野中氏から幾十度も愚痴を聞いた。「もう上海から撤退したら」と助言したこともあった。しかし、同氏の不屈の負けん気と熱意溢れる陣頭指揮で、職場のモラルアップと生産性が高まった。当然、利益が上がるようになる。そうなると傍観主義で終始していた上海側は利益分配に関して干渉してくるようになっていく。

 野中氏は「これじゃーやっておれない。次は独立資本でいくしかないな」と決断した。決別したのだ。合弁でスタートしての4年後のことであった。

独立資本へ移行

 野中氏は必死で工場用地を探した。これまでの位置から西へ10キロほどの所に工場を構えた。2000年のことだ。やはり田畑を工場用地に開発された場所であったが、行政が大々的に力点を置いたものではなかった。

 町工場規模の設備を整えた程度であったが、日本における厳しい単価に耐えうる商品の生産は円滑に進んだ。子会社工場としての機能を十分に果たし得たのだ。結果、日本からも工場視察にクライアントが押し寄せるようになってきた。

 何よりも合弁時代に苦労して培った工場労働者管理のレベルアップが功を奏して、生産性と品質向上が両立できるようになった。何よりも野中氏の自前の経営を貫通できるから経営スピードが速くなる利点も大きい。

 そして上海現地出身の事業パートナーを射止めたことが躍進の原動力になった。何よりも中国現地の人たちの考えを理解できることは、最大の強みになる。加えてパートナーの家族たちの協力もあり、業績は安定してきた。隣接敷地を買収して工場拡大にも一歩一歩手を打っていったのである。

松江区へ進出

 独資工場の受注は多面性を帯びてきた。日本の親会社からだけの仕事だけではなくなったのだ。中国国内、アジアなどの外国から直接、受注するようになったのである。新たな得意先が誕生したのだ。

 別記した通り松江区の工場団地に進出する意向を持っていた日本人経営者から相談があり野中氏は松江区に3番目の工場建設することを決断した。ただし今度の工場は日本本社とは関係なく単独営業で賄われるものとした。要は単独新会社として設立を図ったのである。同氏の経営手法は常に進化していく。
2006年、松江区の工場が稼働する時点では世界市場に納めるような強大な得意先も現れてきた。(3)で触れたように業績を伸展していたおかげで現代的な大型工場も建設可能となったのだ。野中社長の経営力が傑出していることの為せる業なのである。

 そして(3)で記述した通りに浙江省で4番目の工場建設進行中で6月にはオープンする予定だ。この別荘は野中社長夫婦の努力の結晶なのである。

(つづく)
(文中の登場人物は仮名です)

 
(3)
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