2024年05月14日( 火 )

タワマンという住宅政策を考える【前編】(3)

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    タワーマンション(タワマン)は、一般に20階建以上の鉄筋コンクリート造の集合住宅のことをいう。垂直に空高く伸び、すばらしい眺望を手に入れることができるソレは、日本人を夢中にさせる。タワマンは日本人の新築信仰と、狭い国土によって生み出された現代における「バベルの塔」なのだろうか。

 今回、「新しいグランドデザインの建て付け」第3弾として、ハード政策を取り上げてみたい。環境に負荷をかける建築という構造物と、我々はどう付き合い、使って(もしくはつくって)いけばいいのだろうか。とりわけ“住む”という行為において、「垂直方向=タワマンの風景」と、「水平方向=部屋の間取り」から影響される課題について、考えてみたいと思う。

タワマンという住宅政策

 本格的にタワマンが竣工し始めたのは2000年代に入ったころからだ。その背景には、1997年の建築基準法改正などによる規制緩和がある。これによってマンションなどの共同住宅の場合は、廊下や階段、ホールなどの共用部分が容積率不算入とされた。容積率の実質的な大幅緩和である。02年には超高層マンションの建設も視野に入れて、住居系エリアで最大500%、商業地域では最大1,300%にまで容積率が緩和された。さらに高層住居誘導地区内の建築物においては、隣地の日照を保護するために課されている斜線制限の適用が除外されている。つまり、タワマンが建てられる場所では、周りの建物が多少日影になってもOKですよ、という規制緩和である。改正前であれば、斜線制限などでタワマン建築は到底不可能だったが、その規制を一気に取り払った。まるで「タワマン誘導地区」である。つまりこれは、タワマンをつくらせるための建築基準法改正だった。まさに国を挙げて、タワマンの建設を推し始めたのである。

 たとえば「タワマン銀座」として名高い神奈川県川崎市の武蔵小杉エリアでは、タワマンが乱立。この10年間だけでも武蔵小杉駅周辺では7本も竣工した。11年からコロナ前の18年までの7年間で、人口は10万人も増えたようだ。自治体によってはタワマン建設を促進しているケースも少なくなく、公共施設を建物内に設ければその建設に対して補助金を出す自治体もあるので、官民一体となってタワマン建設が行われているといっても過言ではない。武蔵小杉周辺は、川崎市が規制緩和を行い(タワーマンション建設には行政が容積率を緩和しなければならない)、かつてさまざまな企業の工場やグラウンドなど大きな敷地がたくさんあった場所を転用した。こうしたまとまった敷地があったからこそ、今日のようなタワマン密集地となったわけだが、その陰で子どもたちの遊び場は失われているという事情も知っておかなければならない。

 一方、逆の選択をした自治体もある。神戸市長・久元喜造氏は18年、「都心のタワーマンションは抑制し、働く場所としてのオフィスや買い物等を楽しめる場所を誘導したい」として、神戸の中心地・三宮周辺でのタワーマンション建設を規制することを明らかにした。一般にタワーマンションでは、地域コミュニティが形成されにくいほか、空き家がわかりにくいなどの問題が指摘されている。さらに「都心の極めて狭いエリアに、極めて多数の人が集住するという街の在り方が、持続可能な都市といえるのか」と疑問を呈した。「タワーマンションの増加で人口規模を追うのではなく、質の高いまちづくりが重要」であると、タワマンそのものに内在する問題を指摘している。

タワマンという住宅政策 武蔵小杉の開発風景
タワマンという住宅政策 武蔵小杉の開発風景

戦後の“持ち家政策”

 高度成長期時代、多世代同居から一世帯一住戸への流れが加速した。核家族化の流れである。若い夫婦は親世代と同居するのではなく、独立して単独の世帯を形成する。集合住宅であるマンションの出現は、こういった世帯分離を加速させるための後押しになったのは間違いないだろう。

 鉄筋コンクリート造のマンションという集合住宅が現れたとき、多くの日本人は狂喜乱舞した。大阪では千里、東京なら多摩ニュータウンで、盛んに集合住宅が建設されたのは1960年代から80年代。いわゆる「マンション」と我々が呼んでいる鉄筋コンクリート造の集合住宅に、日本人が本格的に住み始めたのはこのころだ。それまで大半の日本人は木造戸建に住んでいて、“マンション”などに住んでいなかった。ほんの半世紀前の話だ。

 従来の吹けば飛ぶような木造住宅に比べ、鉄筋コンクリートは見るからに頑丈で、大きな声を出しても隣戸の住人に聞こえることはない。雨風が防げるのはもちろん、暖房さえあれば冬も暖かく、エアコンを取り付ければ夏も涼しい。

 1945年の敗戦をきっかけにして、日本は文化から生活まですべて大きく変わったが、住宅供給もこのころから大転換する。この時点で、戦災によって焼け出された人や海外からの引き揚げ者などで、約420万戸の住宅が不足していた。本来ならば、ここで人々が住む家を供給することが国の最優先されるべき政策だったにもかかわらず、日本政府は残った金と、世界中から集まった復興資金の大部分を、炭鉱と製鉄に投入する(46号[22年3月末発刊]掲載『“アート思考”で捉え直す都市の作法』参照)。

 イギリスではチャーチル首相(当時)が終戦直後、「家なくして市民なし」という有名な提案理由演説を行い、住宅政策を戦後の復興の最重点政策にしている。しかもその住宅は、緊急の間に合わせ用のバラック建築などでは決してなく、「人間の尊厳を保ち得る住宅と、余暇の時間を活用できる空間をもった住宅でなくてはならない」と謳われていた。こうした公営住宅建設は、イギリスだけでなく、敗戦国のドイツやイタリアなど、ヨーロッパ諸国の戦後復興の重点政策だった。だからヨーロッパにおいて、第二次産業の戦後復興は遅れたし、その部分の資金を産業復興に回した日本では、急速な産業だけの復興があったのだ。

 資金のすべてを第二次産業の復活に投入し、「自分の家は自分でつくれ」という“持ち家政策”に舵を切った日本。基幹産業を復興させることによって、個々の日本人の生活が楽になる、楽になるのだから自分の家は自分でつくれるようになる、という建て付けだ。

戦後の”持ち家政策” 写真:味の素HPよりイメージ引用
戦後の”持ち家政策”
写真:味の素HPよりイメージ引用

(つづく)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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