2024年04月27日( 土 )

【読者からの投稿】アフガンの師・中村哲医師に花手向け

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 2019年12月4日 アフガニスタン東部で中村哲氏は銃撃に遭い、殺害された。9日に遺体が福岡空港に無言の帰郷をし、11日に故郷の福岡市で葬儀が行われ、ゆかりのあった人や支援者など1,300人超が参列した。

 私も葬儀に参加したが、会場では終始、すすり泣く声が聞こえ、多くの方が悔しい思いをしていると感じられた。

中村哲医師(2012年6月)
中村哲医師(2012年6月)

医師としてパキスタンへ

 中村氏は西南中学、福岡高校、九州大学と福岡の地で育ってきた。中村氏の転機は1978年、パキスタンとアフガニスタンをまたぐヒンズークシュ山脈の登山隊の医師として参加したことだった。

 ペシャワールで医師として赴任し、貧困層に多いハンセン病や腸管感染症などの治療にあたる傍ら、難民キャンプや山岳地域でのアフガン難民の一般診療にも従事。1986年からは、アフガン難民への診療を本格的に開始する。

 1991年にはアフガニスタンの東部山岳地帯に最初の診療所を開設し、1998年には恒久的な基地病院としてPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を建設、以来東部山岳の3診療所を中心に医療活動を行ってきた。

 中村氏が赴任したころのアフガニスタンは政府に対する武装蜂起、他国による軍事介入、内戦という、極めて混乱した時期だった。それは、ここで生きている人々にとって苦痛に他ならない。彼らは紛争により土地を奪われ、難民キャンプや山岳地域へ逃げるしかなかった。

干ばつとの闘い

 長年にわたり、現地で医療活動を続けてきたが、「医療だけでは人の命を救うことはできない」という思いが強くなっていった中村氏。きっかけは2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつだった。

 紛争のイメージが強いアフガニスタンは人口の8割以上を農民が占めるという伝統的な農業国。そこに大干ばつが襲いかかることで、豊かな穀倉地帯がことごとく砂漠化し、大規模な飢餓が発生。多くの人が飢餓に陥る。数千万人が土地を追われ、餓死も数百万人にものぼったという。

 水がなく、穀物が育たない、食べるものがない人々は砂漠化した土地を捨て、新天地を求めてさまよう。そして村が丸ごとなくなる。

 栄養失調、汚い水を飲む、赤痢で亡くなる、幼い子どもたちの命を次々とうばっていく大干ばつに、なす術なく立ちつくす医療者たち、「きれいな水と食べ物さえあれば、多くのひとは死ななくて済んだのに」という思いがあふれてきた。

 薬があってもすべての人に与えることはできない。それで飢えや乾きを癒すことはできない。ここでは医療よりも清潔な水と食べ物の確保が何より重要だという信念にたどり着いた中村氏は、PMS病院付近の井戸掘りを中心に新たな活動を始める。

100の診療所より1本の用水路

 中村氏は2000年5月から井戸堀りに挑み始める。現地ではコンクリートなどの建材や重機がなかなか手に入らず苦戦した末、福岡県朝倉市にある「山田堰」を参考にすることに。

 「山田堰」は江戸時代につくられた筑後川にある用水路で、数百年以上たった今も同地を潤し続けている。中村氏は「現地の人々が自力で修復しやすく、またほかの地域でも同じように用水路をつくることができるように」との思いから「山田堰」を参考にしたという。

 「わずか3年で水と緑あふれる土地に!」「わずか10年たらずで水が通り、緑が戻った!」

 私も中村哲先生を見習い、先生の遺志を引き継いで行動しようと思う。

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