2024年05月19日( 日 )

こども病院跡に医療・教育施設?変貌する「福岡・唐人町」(前)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

街道沿いに町屋が並ぶ一方で、寺院集積は都市防衛策の一環

右:妙法寺 / 左:五重塔が目を引く大円寺
左:妙法寺 / 右:五重塔が目を引く大円寺
  

 1821(文政4)年の筑前名所図会(編纂・奥村玉蘭)には、「黒門の外と今川橋の間のすべて唐人町と称す。町数十町あり。唐人町・唐人町横町・新大工町・浪人町・川端・山ノ上・大円寺町・桝小屋町・袋町・簗橋」と記されており、現在の唐人町は細かく区分すると10の町で構成されていたようだ。なお、江戸期の唐人町および唐人町横町には、途中で「くの字」に折れ曲がるかたちで唐津街道が通り、街道を行き交う人たちを相手に商売を行う町屋が街道沿いに集まったのが、現在の唐人町商店街の起源だという。

 なお、唐人町の東側の黒門川に近いところに、妙法寺、浄慶寺、大円寺、正光寺が、西側の菰川沿いには妙安寺、吉祥寺、成道寺、善龍寺と、多くの寺院が集積している。こうした寺院の集合は、石堂川(御笠川)の西岸(現在の御供所町あたり)や、那珂川東岸(現在の上川端町や祇園町あたり)、樋井川東岸(現在の地行や今川あたり)、当時は海岸沿いだった現在の天神3丁目や大手門2丁目界隈などでも行われている。これらの海岸や川岸一帯に寺院を固めた配置は、福岡藩が行った一連の都市防衛の措置であり、寺を城下の郭外に置くことで、有事の際に外からの侵入を阻む“盾”の役割もあったようだ。

 唐人町では、前出の町屋や寺院のほか、福岡城にそこそこ近い立地から、浪人町や大円寺町では下級武士の家が建ち並んでいたようだ。また、福岡藩が藩校として設置した2つの学問所のうち、西学問所「甘棠館」が1784(天明4)年に開設されたが、わずか8年後の92年に唐人町界隈を襲った大火によって焼失・廃校となっている。

右:正光寺 / 左:善龍寺
左:正光寺 / 右:善龍寺
 
水路として残る簗所跡
水路として残る簗所跡

 前出の桝小屋町では、福岡藩内の穀物を量る桝の製造・検査を行う「桝小屋」が設置され、百姓が上納する年貢米を量る「納桝」と、家臣に支給する俸祿米を図る「御国町桝」の2種類の桝がつくられていた。なお、納桝は御国町桝に比べて8%余計に入るようになっており、この2種類の桝の差分で藩庫を潤す仕組みになっていたようだ。また、同地には犯罪の取り調べと裁判を執り行う「詮議所」が設置されたほか、処刑場もあったとされている。

 ほかに簗橋では、黒門川の河口で川の流れを堰き止め、魚を生け捕る仕掛けをした「簗所」があったとされており、江戸期中ごろには福岡藩唯一の簗所として簗奉行が置かれ、ここで漁が行われていたようだ。その痕跡は現在、黒門川の暗渠が地上部に出てくる水路として残っている。

【坂田 憲治】

関連記事