2024年05月15日( 水 )

建築家とは何か(前)「箱」から「場」へ構造転換(2)

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 規律と秩序を保ち、社会との親和性を図る指南役として“建築家”は存在する。しかし今、彼らの力が社会的に弱まってきているようだ。設計者は何を考えているのか──都市を積み上げる実行者たちの働き方から、業界に存在する特殊なメカニズムの秘密に迫ってみたい。

建築家を再生産する装置

 建築家はクライアントがあって初めて成り立つ仕事であるがゆえに、クライアントにきちんと説明できるように、常に考えながら空間をつくっていく姿勢をすべての授業のなかで叩き込まれる。一本の線を引くにしても徹底的に言葉を準備し、意味のある表現へと昇華させていくのだ。

 たくさんの学生に設計を教えたいと思うとき、その最大のチャンスは“講評”にあるといわれる。学生の作品をその中途で、あるいは結果をそれぞれ皆の前で発表させ、それに対して公開で批評を行う。これは建築に限らず、芸術系の科目全般の指導においても広く普及している指導方法で、これが今のところ最良の方法だと言われている。講評会では、教授(教師)は学生の作品に審判を下す特権的な裁定者として振る舞う。作品を発表させ、講評を与え、序列をつけ、ときには自らの名を冠した賞を与える。学生たちはここで否応なく自分の内面と対峙することになり、眠っていたプライドに磨きが掛けられていく。講評会は、「教授=建築家」の権威を再生産するための舞台装置にもなっているのだ。

 師事する建築家の存在(もしくは後述する“師匠”の存在)は、自身の作風や考え方にとどまらず、服装や髪型、持ち物までも類似していき、絶対的存在としてその人物を支配していく。狼に育てられた子は自身を狼として認識していくとたとえられるように、子は親の生き方に似ていくのだ。そしてその作風に魅せられてしまった施主や社会もまた、その建築家に陶酔していく。建築界の駆動力は、スターアーキテクトの存在だ。学生や若い建築家はそこを目指して技量を磨き、これが建築家たちの原動力になっている。スターアーキテクトは話題を提供し、建築デザインの流れをつくっていく。その事例をコピーし、業界は水平線上に似たようなデザインを大量生産へ乗せていく。つまり、建築界において卓越した建築家の出現は業界の永続と発展に不可欠であり、そのために大学教育は未来のスターアーキテクトを産出するための装置/システムとしての役割を担っているのだ。

世界の建築様式に影響を与えた20世紀最高傑作の住宅
「サヴォア邸(1931竣工)  ル・コルビュジエ」
出典:けんちく探訪

“住宅”という戦場

 では、駆け出しの建築家は、実際どれほどの力量をもっているのだろうか。どの建築家に引き上げチャンスを与えていけば、社会全体のプラスになるのか。それは、住宅設計という1つの共通の土俵(パドック)の上で試される。

 かつて建築家は、帝国大学を中心とした、ほんの一握りの教育機関から輩出されるエリート専門職だった。つまり、学歴がここでは入界金としての機能をはたしていたのだ。ところが、戦前・戦後を通じて建築教育機関は増加し、そこから輩出される建築家予備軍も増えていく。教育機関を卒業したことが建築家としての資質や能力を保証するものではなくなると、学歴は入界金としての機能を果たせなくなる。そこで、学歴に代わる選抜手段が求められた。それが“住宅の設計”というわけである。

住宅という戦場  イメージ写真:freepik
住宅という戦場  イメージ写真:freepik

    住宅であれば重厚長大な公共建築物とは違ってクライアントも多く、設計のチャンスは比べ物にならないほどたくさんある、ということも奏功した。さらに焼け野原となった敗戦日本では、膨大な量の住宅が必要とされた。1955年に大和ハウス工業が「ミゼットハウス」を発表し、60年に積水化学工業の「セキスイハウスA型」、61年には松下電工の「松下一号型」などが相次いで発表され、本格的なプレハブ住宅が隆盛していく。62年には住宅金融公庫が、住宅難解消の1つの手段として8社9タイプのプレハブ住宅を融資対象住宅として認定するなど、住宅産業は高度成長時代の勢いに乗って大きく成長し、国の主要産業となった。

 その開発の先頭バッターには、必ずその時代の建築家の示唆があり、プロトタイプがあった。「建築家の在りようは、いかなる環境に生まれいかなる時代に育ったか、建築家以前の時間に深く関わっている」とかつて安藤忠雄が語ったように、社会背景によってその仕事量、仕事の質や求められる存在事由も異なる。戦後の復興期、経済成長期、平成不況期、災害時や成熟期によって社会が要求する“線の濃淡”は、やはりその背景によって厚みを変えていくことになる。それは同時に、都市の密度も変えていくことになるのだ。

高度成長期、業界を支えた建築家たち

 明治時代以降、建築家は近代国家にふさわしい重厚な洋風建築を設計することをその使命としていた。そのため明治から戦前にかけての建築家や、戦後に活躍した丹下健三(1913-2005)、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)といった建築家は、住宅の設計をほとんど行っていない。

 槇文彦(1928-)は70年代の建築家を「野武士の世代(40年代生まれの建築家※)」と名付けた。

※安藤忠雄(1941-)、伊東豊雄(1941-)、手綱毅曠(1941-2001)、六角鬼丈(1941-2019)、石山修武(1944-)、山本理顕(1945-)など

建築家の解体(ちくま新書) 松村淳
建築家の解体(ちくま新書)
松村淳

 “野武士”の由来は、戦前の建築家が資産家や権力者といったパトロンに抱えられて彼らの注文する建築を設計したのに対し、パトロンをもたずデザイン力だけで勝負を挑もうとする姿勢が、主君をもたない「野武士」と重ねてたとえられた。伊東豊雄はその作風のなかに、クライアントワークからの脱却を試みていた。住宅(建築)の設計という仕事はクライアントからの依頼がないと成り立たないが、クライアント上位でコトが進めば建築家の職能は発揮しづらい。「今私のところには施主からのさまざまな感想やクレームが寄せられ、ここで生活する人たちとの新たな衝突が始まりつつある」と伊東はいう。それはまるで住人からのクレームを、あらかじめ折り込み済みであり、それをむしろ歓迎するような様相でもあった。(参考文献『建築家の解体/松村淳』)

 70年代に入り、建築・住宅メディアもより過激な作品を好むようになった。それはときに、多くの人々が要求する住宅への要望(快適さ、安全性、低コストなど)を犠牲にしてしまっていた。野武士の下の世代である隈研吾(1954-)は、彼らの住宅作品について「多くのクライアントの生活が、その革命的行為の犠牲になった」と語っている。先鋭的なポジションでは建築という主義主張が高尚で誇り高く、その象徴はやはり権威的に支持されていた時代だったのだろう。

(つづく)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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